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高野長英築造の台場跡

ページID:0137804 更新日:2026年3月3日 印刷ページ表示
南予
史跡
江戸時代
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高野長英築造の台場跡の画像
高野長英築造の台場跡の画像
詳細情報
区分・種別
県指定
記念物
史跡
時代
江戸時代
よみ
たかのちょうえいちくぞうのだいばあと
名称
高野長英築造の台場跡
所在地
愛南町久良
所有者
個人
管理団体
指定年月日
昭和25年10月24日

解説

 深浦湾の南西端に突き出た天嶬鼻(てんぎはな)の断崖上に、高野長英の設計にかかる砲台(台場)跡がある。遺跡は海面から約20mの小台地にあって、三方は自然の断崖、西方は岬の丘陵につづいている。広さ33aの平坦地に、高さ1~1.5mの石塁を築き、大砲2~3門を構えていたようである。現在は昔日の面影をわずかにとどめているだけである。
 幕末、各藩は異国海防のため、要害の地に砲台を築造した。開明的であった宇和島藩主伊達宗城(むねなり)は、藩軍備の近代化に取り組んでいたが、たまたま幕府の探索を逃れて潜伏中の高野長英(「蛮(ばん)社(しゃ)の獄(ごく)」で入牢中に逃走)をかくまい、軍備研究と実践にあたらせた。長英は4人扶持(ふち)と翻訳料を支給されて、オランダ兵学研究、翻訳、著作にたずさわり、『砲家必読』『三兵答久知機(たくちき)』『知彼一助(ちひいちじょ)』等の翻訳を行うとともに、藩の求めに応じてこの砲台の設計をおこなった。
 長英は翌嘉永2(1849)年、わずか1年あまりで宇和島を去るが、砲台は同3(1850)年5月頃完工し、蘭学を通じて藩風の革新に寄与した点は特筆される。