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義農作兵衛の墓
中予
史跡
江戸時代
愛媛の偉人を知る
| 区分・種別 |
県指定
記念物
史跡
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|---|---|
| 時代 | 江戸時代
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| よみ | ぎのうさくべえのはか
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| 名称 | 義農作兵衛の墓
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| 所在地 | 松前町筒井
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| 所有者 | 松前町
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| 管理団体 | |
| 指定年月日 | 昭和23年10月28日
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解説
作兵衛は、元禄元(1688)年2月10日に松山藩筒井村(現松前町)に生まれた。田畑3反3畝(約3272㎡)小作田1反5畝(約1487㎡)を耕作する小農で、年貢もきちんと納めていた勤勉な農民であった。
享保17(1732)年の豪雨・洪水で麦は収穫できず、田植えをした稲はウンカの大発生により大飢饉となった。松山藩の被害は諸藩中最大で、餓死者は、3489人におよんだという。
前年病気で妻を失い、この年父と息子が餓死し、本人も農作業中に倒れたが、彼は麦種の食用をすすめる隣人に「種は農の本でわが命より尊い」と説き、麦種を枕に同年9月23日、45歳でなくなった。その後、世人から「義農」とたたえられている。
安永5(1776)年、藩主松平定静(まつだいらさだきよ)はその義をたたえ、藩の儒学者の丹波南陵(たんばなんりょう)に碑文を書かせ「義農之墓」の碑を墓前に建てて永く顕彰することとした。
享保17(1732)年の豪雨・洪水で麦は収穫できず、田植えをした稲はウンカの大発生により大飢饉となった。松山藩の被害は諸藩中最大で、餓死者は、3489人におよんだという。
前年病気で妻を失い、この年父と息子が餓死し、本人も農作業中に倒れたが、彼は麦種の食用をすすめる隣人に「種は農の本でわが命より尊い」と説き、麦種を枕に同年9月23日、45歳でなくなった。その後、世人から「義農」とたたえられている。
安永5(1776)年、藩主松平定静(まつだいらさだきよ)はその義をたたえ、藩の儒学者の丹波南陵(たんばなんりょう)に碑文を書かせ「義農之墓」の碑を墓前に建てて永く顕彰することとした。
所在地
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