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川田雄琴一家の墓

ページID:0137781 更新日:2026年3月3日 印刷ページ表示
南予
史跡
江戸時代
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川田雄琴一家の墓の画像1
川田雄琴一家の墓の画像2
川田雄琴一家の墓の画像3
川田雄琴一家の墓の画像1
川田雄琴一家の墓の画像2
川田雄琴一家の墓の画像3
詳細情報
区分・種別
県指定
記念物
史跡
時代
江戸時代
よみ
かわだゆうきんいっかのはか
名称
川田雄琴一家の墓
所在地
大洲市柚木
所有者
興禅寺
管理団体
指定年月日
昭和34年3月31日

解説

 川田(かわだ)雄(ゆう)琴(きん)一家の墓は興禅寺(こうぜんじ)の境内裏、山の中腹にあり、墓域は東西3m・南北8mの広さである。雄琴の墓碑は南側にあって北面し、花崗岩製で「雄琴川田先生墓」の刻銘がある。墓地の西側には、雄琴夫人の「慧球孺人墓」、「為谿川田先生墓」、「川田為谿翁室室岡氏墓」および「紫淵川田先生墓」の4基が並んでいる。
 川田氏は、雄琴、嫡子資哲(為谿(いけい))、嫡孫資始(しし)と資敬(しけい)(紫淵)の3代にわたる江戸時代の陽明学者で、3代60年あまりにわたって大洲藩校止善書院(しぜんしょいん)明倫堂(めいりんどう)の教授を継承し、同藩の教学の振興に多大の功績をあげた。
 雄琴(1684~1760)は、朱子学を梁田(やなだ)蛻巌(ぜいがん)に、のち陽明学を三輪(みわ)執斎(しっさい)に学んだ。大洲藩主泰温(やすあつ)に仕え、藩学止善書院明倫堂の創設に尽力してその教授となった。資哲、その長子資始、次子資敬いずれも明倫堂教授として寛政異学(かんせいいがく)の禁により家業が免ぜられるまで、藩教学の興隆にあたった。