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青地林宗の墓
中予
史跡
江戸時代昭和時代(昭和20年(1945)まで)
愛媛の偉人を知る
| 区分・種別 |
県指定
記念物
史跡
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|---|---|
| 時代 | 江戸時代昭和時代(昭和20年(1945)まで)
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| よみ | あおちりんそう はか
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| 名称 | 青地林宗の墓
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| 所在地 | 松山市御幸1丁目
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| 所有者 | 来迎寺
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| 管理団体 | 松山市
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| 指定年月日 | 昭和26年11月27日
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解説
青地林宗は、江戸時代後期の蘭学者である。彼ははじめ江戸浅草の曹源寺(そうげんじ)に葬られたが、昭和3(1928)年に青地家に縁のある来迎寺(らいごうじ)に改葬された。墓碑銘「青地林宗先生墓」は呉秀三(くれしゅうぞう)の筆で、改葬時に作られたものである。
林宗は安永4(1775)年、松山藩医青地快庵の子として生まれ、名を盈(えい)、字は子遠、号を芳滸(ほうこ)といった。はじめ家業の漢方医を修めたが、のち蘭学を志し、通詞馬場貞由にオランダ語を学び、杉田立卿、宇田川玄真の諸家の指導を受けて蘭学者となった。
文政5(1822)年幕府天文台訳局訳官に任ぜられ、杉田立卿とともに洋書翻訳に従事し、『医学集成』を著したほか、物理学の『格物綜凡』の訳出、我が国最初の物理学書『気海観瀾』等約100冊の書物を著作、翻訳したといわれる。天保3(1832)年水戸藩に招かれ、医員兼西学都講に就任したが、59歳で江戸で没した。
林宗は安永4(1775)年、松山藩医青地快庵の子として生まれ、名を盈(えい)、字は子遠、号を芳滸(ほうこ)といった。はじめ家業の漢方医を修めたが、のち蘭学を志し、通詞馬場貞由にオランダ語を学び、杉田立卿、宇田川玄真の諸家の指導を受けて蘭学者となった。
文政5(1822)年幕府天文台訳局訳官に任ぜられ、杉田立卿とともに洋書翻訳に従事し、『医学集成』を著したほか、物理学の『格物綜凡』の訳出、我が国最初の物理学書『気海観瀾』等約100冊の書物を著作、翻訳したといわれる。天保3(1832)年水戸藩に招かれ、医員兼西学都講に就任したが、59歳で江戸で没した。
所在地
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