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菊屋新助の墓
中予
史跡
江戸時代
愛媛の偉人を知る
| 区分・種別 |
県指定
記念物
史跡
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|---|---|
| 時代 | 江戸時代
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| よみ | きくやしんすけのはか
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| 名称 | 菊屋新助の墓
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| 所在地 | 松山市木屋町2丁目
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| 所有者 | 円福寺
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| 管理団体 | |
| 指定年月日 | 昭和30年11月4日
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解説
菊屋新助は、江戸時代中期の商人で、伊予縞木綿(しまもめん)を織る高機(たかはた)の考案改良をした人である。墓は円福寺境内に入ってすぐ左の一隅にあり、墓碑の高さ約81cmで、正面に「直海智哲居士」の文字が刻されている。
新助は安永2年(1773)、野間郡小部村(越智郡波方町)の農家に生まれ、文化年間(1804~1818)に松山へ移って木綿製造に従事し、松前町に菊屋と号する店を出した。彼は従来の縞木綿生産用の地機(じばた)が不完全なのをみてその改良を決意し、松山藩から資金を借りて、京都の西陣から絹織用の花機を取り寄せて木綿機(もめんばた)に改良した。
新案の高機は、従来の地機に比べ作業が楽で精巧な織りが可能なうえに能率がよいので、縞木綿の生産量及び販路が急速に拡大した。この高機と鍵谷カナの独創性がのちに「伊予絣」を生むことになる。新助は天保6年(1835)62歳で没した。
新助は安永2年(1773)、野間郡小部村(越智郡波方町)の農家に生まれ、文化年間(1804~1818)に松山へ移って木綿製造に従事し、松前町に菊屋と号する店を出した。彼は従来の縞木綿生産用の地機(じばた)が不完全なのをみてその改良を決意し、松山藩から資金を借りて、京都の西陣から絹織用の花機を取り寄せて木綿機(もめんばた)に改良した。
新案の高機は、従来の地機に比べ作業が楽で精巧な織りが可能なうえに能率がよいので、縞木綿の生産量及び販路が急速に拡大した。この高機と鍵谷カナの独創性がのちに「伊予絣」を生むことになる。新助は天保6年(1835)62歳で没した。
所在地
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