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伊達宗城及び夫人の墓

ページID:0137776 更新日:2026年3月3日 印刷ページ表示
南予
史跡
江戸時代明治時代
荘厳で神秘的
伊達宗城及び夫人の墓の画像
伊達宗城及び夫人の墓の画像
詳細情報
区分・種別
県指定
記念物
史跡
時代
江戸時代明治時代
よみ
だてむねなりおよびふじんのはか
名称
伊達宗城及び夫人の墓
所在地
宇和島市野川
所有者
個人
管理団体
指定年月日
昭和44年2月18日

解説

  伊達宗城は、宇和島藩伊達家8代藩主で、幕末四賢侯の一人と称せられ、幕末から明治時代初期に大きな足跡を残した。その墓は等覚寺の境内にあって遺髪を葬り、墓碑には「靖国院殿藍山維域大居士」と刻されている。隣に、同形状の夫人猶子の墓がある。夫人は肥前国佐賀藩主鍋島斉直(なべしまなりなお)の娘で、天保11(1840)年に嫁し、慶応2(1866)年に55歳で病没した。
 宗城は文政元(1818)年、3000石の旗本、山口直勝の第2子として生まれた。文政12(1829)年、7代藩主宗紀(むねただ)の養子となり宗城と称し、弘化元(1844)年に家督を継いだ。開明的藩主として洋学研究を奨励し、富国強兵の実をあげた。
 安政年間(1854~1860年)、将軍継嗣問題にあたり一橋派に属し、また安政五か国条約を非難したことから、安政の大獄で譴責(けんせき)を受けて隠居した。以後も島津久光・山内豊信(やまうちとよしげ)らと公武合体策を推進した。維新後、新政府で参議、民部卿、大蔵卿、清国への欽差全権大臣、修史館副総裁などの要職を歴任した。明治25(1892)年、東京で病没、谷中に埋葬された。