本文
松平定政の霊廟
中予
史跡
江戸時代
荘厳で神秘的
| 区分・種別 |
県指定
記念物
史跡
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|---|---|
| 時代 | 江戸時代
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| よみ | まつだいらさだまさ れいびょう
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| 名称 | 松平定政の霊廟
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| 所在地 | 松山市祝谷東町
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| 所有者 | 個人
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| 管理団体 | |
| 指定年月日 | 昭和29年11月24日
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解説
常信寺の松平定行(松山藩松平家初代藩主)の霊廟に隣接して、弟定政の霊廟がある。建物は1間四方、桟瓦葺宝形造で向拝(こうはい)のついたごく簡素なものである。
定政は慶長15(1610)年、松平定勝の6男として生まれ、将軍家光に仕えて能登守に任ぜられ、慶安2(1649)年に三河国刈谷2万石の藩主となった。
慶安4(1651)年、家光の死去で将軍家綱がたつと、定政は時勢を慨嘆して幕政改革の建白書を提出し、領地返上を申し出て、長子定知とともに上野寛永寺に隠せいした。幕府はこの所行を狂気のなせるわざとして処断し、城地を没収し、身柄を兄の定行に預けて謹慎させた。
松山での定政は、悠々自適の風雅な生活を楽しみ、「不白」と号し、東野の吟(ぎん)松(しょう)庵(あん)で静かな余生を送った。寛文12(1672)年に没し、法号を広禅院という。
定政は慶長15(1610)年、松平定勝の6男として生まれ、将軍家光に仕えて能登守に任ぜられ、慶安2(1649)年に三河国刈谷2万石の藩主となった。
慶安4(1651)年、家光の死去で将軍家綱がたつと、定政は時勢を慨嘆して幕政改革の建白書を提出し、領地返上を申し出て、長子定知とともに上野寛永寺に隠せいした。幕府はこの所行を狂気のなせるわざとして処断し、城地を没収し、身柄を兄の定行に預けて謹慎させた。
松山での定政は、悠々自適の風雅な生活を楽しみ、「不白」と号し、東野の吟(ぎん)松(しょう)庵(あん)で静かな余生を送った。寛文12(1672)年に没し、法号を広禅院という。
所在地
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