本文
荏原城跡
中予
史跡
鎌倉時代南北朝時代室町時代安土・桃山時代
| 区分・種別 |
県指定
記念物
史跡
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|---|---|
| 時代 | 鎌倉時代南北朝時代室町時代安土・桃山時代
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| よみ | えばらじょうあと
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| 名称 | 荏原城跡
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| 所在地 | 松山市恵原町
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| 所有者 | 諏訪神社ほか
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| 管理団体 | |
| 指定年月日 | 昭和25年10月24日
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解説
荏原城跡は、重信川の支流御坂川(みさかがわ)に沿う恵原(えばら)の平坦地に築かれた中世の平城(ひらじろ)の遺跡で、恵原城、会原城、棚居城、平岡城などの別名がある。
築城の年代は不明であるが、建武2(1335)年から同3年にかけて、忽那(くつな)氏が「会原城」で戦った記録が『忽那一族軍忠次第』にある。
戦国時代末期、河野氏の重臣平岡氏の居城となり、土佐からの侵入を防ぐ拠点であったが、天正13(1585)年豊臣秀吉の四国統一により、湯築城主河野通直(こうのみちなお)がその軍門に降り、荏原城も平岡道倚(ひらおかみちより)を最後の城主として廃城となった。
城跡は方形の平地で、高さ5mほどの土塁を周囲に築き、その外側に堀をめぐらせている。堀の幅は北側20m、西と東は14m、南は10mで、長さは東西130m、南北120mである。土塁の内側に居館が構築されていたものと思われるが、現在は畑、山林となっている。また土塁には石積がなく、矢竹が植えられている。
築城の年代は不明であるが、建武2(1335)年から同3年にかけて、忽那(くつな)氏が「会原城」で戦った記録が『忽那一族軍忠次第』にある。
戦国時代末期、河野氏の重臣平岡氏の居城となり、土佐からの侵入を防ぐ拠点であったが、天正13(1585)年豊臣秀吉の四国統一により、湯築城主河野通直(こうのみちなお)がその軍門に降り、荏原城も平岡道倚(ひらおかみちより)を最後の城主として廃城となった。
城跡は方形の平地で、高さ5mほどの土塁を周囲に築き、その外側に堀をめぐらせている。堀の幅は北側20m、西と東は14m、南は10mで、長さは東西130m、南北120mである。土塁の内側に居館が構築されていたものと思われるが、現在は畑、山林となっている。また土塁には石積がなく、矢竹が植えられている。
所在地
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