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湯築城跡

ページID:0137721 更新日:2026年3月3日 印刷ページ表示
中予
史跡
鎌倉時代南北朝時代室町時代安土・桃山時代
春におすすめファミリーで楽しめるより深く学べる(ガイダンス・展示施設等隣接)
湯築城跡の画像
湯築城跡の画像
詳細情報
区分・種別
国指定
記念物
史跡
時代
鎌倉時代南北朝時代室町時代安土・桃山時代
よみ
ゆづきじょうあと
名称
湯築城跡
所在地
松山市道後公園
所有者
愛媛県ほか
管理団体
指定年月日
平成14年9月20日

解説

 湯築城跡(ゆづきじょうあと)は、14世紀前半に河野通盛(こうのみちもり)がそれまでの河野氏の拠点であった風早郡河野郷(かざはやぐんこうのごう)から道後の地に移って築いたといわれている。築城に関する文献は残っていないが、河野郷の居館が寺(善応寺(ぜんおうじ))になった時期や、忽那(くつな)家文書の記述などから遅くとも建武年間(1334~1338年)には築城されたと推定される。
 河野氏は細川氏との戦いに敗れ、湯築城も一時占領されていた時期があったが、守護職とともに湯築城を奪い返し、戦国末期まで伊予国守護としてその地位を受け継いでいった。しかし、近隣諸国から幾度となく攻撃を受けたり、惣領職の継承をめぐる分裂や家臣の反乱が繰り返されるなど、その地位は決して安泰ではなかった。
 天正13(1585)年全国統一を目指す羽柴(はしば)(豊臣)秀吉の命を受けた小早川隆景(こ ばやかわたかかげ)に湯築城は包囲され、河野通直(こうのみちなお)は降伏し、やがて湯築城は廃城となった。
 昭和63(1988)年から12年間におよぶ埋蔵文化財発掘調査を実施したところ、道路、溝、礎石遺物、土塀、円形石積、池などの遺構が検出され、土師質土器や輸入陶磁器、国産陶磁器などの土器類や武具、建築用具の金属製品など多種多様な遺物が約25万点あまり出土している。
 また、遺構の分布状況から湯築城が家臣団の居住区、庭園区、上級武士の居住区などに分かれ、機能を分担していたことが明らかになっている。