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金刀比羅神社算額

ページID:0137680 更新日:2026年3月3日 印刷ページ表示
南予
江戸時代
金刀比羅神社算額の画像
金刀比羅神社算額の画像
詳細情報
区分・種別
県指定
有形民俗文化財
時代
江戸時代
よみ
ことひらじんじゃさんがく
名称
金刀比羅神社算額
所在地
大洲市中村
所有者
金刀比羅神社
管理団体
指定年月日
平成17年12月27日

解説

金刀比羅神社算額は天明8(1788)年、別宮四郎兵衛猶重(べっくしろうべえなおしげ)によって大洲市新谷の金刀比羅神社(元は山口神社と称し、平成16年に改称した)に奉納され、同社の絵馬殿に掲げられてきたが、現在は大洲市立博物館にて寄託保管されるものである。本算額は、縁寸法の外寸が縦(たて)752ミリメートル、横(よこ)1059ミリメートル(内寸は638ミリメートル×944ミリメートル)、厚み29ミリメートルと横長のもので、桐材を3枚合せた画面に描かれる。構図は問題文のみを示して広く解法を問うところの「遺題(いだい)算額」で、初期のものと見られている。また当初に墨書されていたものを、後世に浅く刻字して胡粉(ごふん)を以ってなぞった形跡が伺えるとともに、額縁も後補の跡が確認される。
 なお、奉納者の別宮四郎兵衛猶重については不明な部分が多いが、新谷藩御取持方(にいやはんおとりもちかた)とされ、文化7(1810)年に没し、新谷の総持寺に墓がある。また、その師である兵頭正甫(せいほ)は平兵衛と名乗り、新谷藩に属した喜多郡出海村(いづみ)(現大洲市長浜町出海)の庄屋で、詫間(たくま)流の和算家である内田秀富(しゅうふ)に師事した。安永9(1780)年に没しているから、本算額は師の正甫没後の奉納となる。和算の諸流派は、おおむね関流(関孝和(1642~1708)が創始)に含まれて大きな差異はなかったとされるが、その中で記法が異なるのが関西で誕生した詫間能清(のうせい)に始まる詫間流だといわれる。新谷藩においては藩財政建て直しの必要性から、享保3(1718)年に大坂の岡本屋与右衛門を招いて出海村に銅山を開き、同8年に藩営としてよりその管理を正甫の父である兵頭正(まさ)武(たけ)らに命じている。こうした流れのなかで、新谷藩に詫間流算学が持ち込まれたと推定されている。
なお新谷藩では、同時期に藩士の岩田清興(せいきょう)や岩田清謹(せいきん)の兄弟による関流和算も存在し、伊予市稲荷の伊予稲荷神社には清興の奉納した寛政9(1797)年の算額も残されている。