本文
松山城
中予
建造物
江戸時代
春におすすめフォトジェニックな場所ファミリーで楽しめる
| 区分・種別 |
国指定
重要文化財
建造物
|
|---|---|
| 時代 | 江戸時代
|
| よみ | まつやまじょうにじゅういっとう
てんしゅ さんのもんみなみやぐら にのもんみなみやぐら いちのもんみなみやぐら いぬいやぐら のはらやぐら しきりもん さんのもん にのもん いちのもん しちくもん かくしもん かくしもんつづきやぐら となしもん しきりもんうちべい さんのもんひがしべい すじがねもんひがしべい にのもんひがしべい いちのもんひがしべい しちくもんひがしべい しちくもんにしべい |
| 名称 | 松山城21棟
天守 三の門南櫓 二の門南櫓 一の門南櫓 乾櫓 野原櫓 仕切門 三の門 二の門 一の門 紫竹門 隠門 隠門続櫓 戸無門 仕切門内塀 三の門東塀 筋鉄門東塀 二の門東塀 一の門東塀 紫竹門東塀 紫竹門西塀 |
| 所在地 | 松山市丸之内
|
| 所有者 | 松山市
|
| 管理団体 | |
| 指定年月日 | 昭和10年5月13日
|
解説
賤ヶ岳七本槍(しずがたけななほんやり)で勇名を馳せた加藤嘉明(よしあき)は、その後も歴戦して伊予の国正木(松前)6万石(のち10万石)の城主となり、さらに関ケ原の戦功により10万石が加増されました。慶長7(1602)年、嘉明は松山平野の中心をなす勝山を選び新しく築城を開始し、翌8年、居を新城下に移すとともに、松山という地名を公にしました。松山城の築城は普請奉行足立重信が指揮して行われ、嘉明が会津若松城主に転封(てんぽう)される寛永4(1627)年までの26年の間にほとんど完成しましたが、一部の工事は次の城主・蒲生忠知(がもうただとも)によって引き継がれました。
勝山に本丸を構築し、南西の山麓海抜39mの位置に二之丸(藩邸建物)を、その下の山裾には濠をめぐらせて堀之内(武家屋敷)を置き、北側の山麓には出曲輪(でぐるわ)、東に郭を構えるという、壮大なものでした。本丸上の本壇には連立式天守が諸櫓を従えてそびえ、当初は五層の偉容を誇ったといわれますが、その後寛永19(1642)年に松平初代藩主定行によって三層に改築され、さらに天明4(1784)年の落雷により天守を含む本壇一帯の建物は残らず焼失しました。これらの建物は嘉永5(1852)年に至ってすべて復元されました。
現存する天守はこの時のもので、石造穴蔵1階、その上に木造三層3階、構造的には後期層塔型に属し、我が国城郭建築史上最後の作品として注目されます。その内部には時代の平和相を反映した居室化が見られますが、外部については、軒や破風(はふ)に反りを持たず、壁は下見板張りとし、塗籠格子窓(ぬりごめこうしまど)、突き揚げ板戸、狭間(さま)を備えています。
本丸には野原櫓ほかの慶長(1596~1615)年間の建物、天守ほかの嘉永(1848~1854)年間の建物が現存し、国指定重要文化財に指定されています。また、昭和時代の復元建物も混在します。
勝山に本丸を構築し、南西の山麓海抜39mの位置に二之丸(藩邸建物)を、その下の山裾には濠をめぐらせて堀之内(武家屋敷)を置き、北側の山麓には出曲輪(でぐるわ)、東に郭を構えるという、壮大なものでした。本丸上の本壇には連立式天守が諸櫓を従えてそびえ、当初は五層の偉容を誇ったといわれますが、その後寛永19(1642)年に松平初代藩主定行によって三層に改築され、さらに天明4(1784)年の落雷により天守を含む本壇一帯の建物は残らず焼失しました。これらの建物は嘉永5(1852)年に至ってすべて復元されました。
現存する天守はこの時のもので、石造穴蔵1階、その上に木造三層3階、構造的には後期層塔型に属し、我が国城郭建築史上最後の作品として注目されます。その内部には時代の平和相を反映した居室化が見られますが、外部については、軒や破風(はふ)に反りを持たず、壁は下見板張りとし、塗籠格子窓(ぬりごめこうしまど)、突き揚げ板戸、狭間(さま)を備えています。
本丸には野原櫓ほかの慶長(1596~1615)年間の建物、天守ほかの嘉永(1848~1854)年間の建物が現存し、国指定重要文化財に指定されています。また、昭和時代の復元建物も混在します。
所在地
地図の読み込みに関する問題が発生したとき<外部リンク>






