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松山城

ページID:0137415 更新日:2026年3月3日 印刷ページ表示
中予
建造物
江戸時代
春におすすめフォトジェニックな場所ファミリーで楽しめる
松山城の画像
松山城の画像
詳細情報
区分・種別
国指定
重要文化財
建造物
時代
江戸時代
よみ
まつやまじょうにじゅういっとう
てんしゅ
さんのもんみなみやぐら
にのもんみなみやぐら
いちのもんみなみやぐら
いぬいやぐら
のはらやぐら
しきりもん
さんのもん
にのもん
いちのもん
しちくもん
かくしもん
かくしもんつづきやぐら
となしもん
しきりもんうちべい
さんのもんひがしべい
すじがねもんひがしべい
にのもんひがしべい
いちのもんひがしべい
しちくもんひがしべい
しちくもんにしべい
名称
松山城21棟
天守
三の門南櫓
二の門南櫓
一の門南櫓
乾櫓
野原櫓
仕切門
三の門
二の門
一の門
紫竹門
隠門
隠門続櫓
戸無門
仕切門内塀
三の門東塀
筋鉄門東塀
二の門東塀
一の門東塀
紫竹門東塀
紫竹門西塀
所在地
松山市丸之内
所有者
松山市
管理団体
指定年月日
昭和10年5月13日

解説

 賤ヶ岳七本槍(しずがたけななほんやり)で勇名を馳せた加藤嘉明(よしあき)は、その後も歴戦して伊予の国正木(松前)6万石(のち10万石)の城主となり、さらに関ケ原の戦功により10万石が加増されました。慶長7(1602)年、嘉明は松山平野の中心をなす勝山を選び新しく築城を開始し、翌8年、居を新城下に移すとともに、松山という地名を公にしました。松山城の築城は普請奉行足立重信が指揮して行われ、嘉明が会津若松城主に転封(てんぽう)される寛永4(1627)年までの26年の間にほとんど完成しましたが、一部の工事は次の城主・蒲生忠知(がもうただとも)によって引き継がれました。
 勝山に本丸を構築し、南西の山麓海抜39mの位置に二之丸(藩邸建物)を、その下の山裾には濠をめぐらせて堀之内(武家屋敷)を置き、北側の山麓には出曲輪(でぐるわ)、東に郭を構えるという、壮大なものでした。本丸上の本壇には連立式天守が諸櫓を従えてそびえ、当初は五層の偉容を誇ったといわれますが、その後寛永19(1642)年に松平初代藩主定行によって三層に改築され、さらに天明4(1784)年の落雷により天守を含む本壇一帯の建物は残らず焼失しました。これらの建物は嘉永5(1852)年に至ってすべて復元されました。
 現存する天守はこの時のもので、石造穴蔵1階、その上に木造三層3階、構造的には後期層塔型に属し、我が国城郭建築史上最後の作品として注目されます。その内部には時代の平和相を反映した居室化が見られますが、外部については、軒や破風(はふ)に反りを持たず、壁は下見板張りとし、塗籠格子窓(ぬりごめこうしまど)、突き揚げ板戸、狭間(さま)を備えています。
 本丸には野原櫓ほかの慶長(1596~1615)年間の建物、天守ほかの嘉永(1848~1854)年間の建物が現存し、国指定重要文化財に指定されています。また、昭和時代の復元建物も混在します。