本文
大太刀(無銘 伝 豊後友行、附野太刀拵)
東予
工芸品
南北朝時代
アートや工芸の美に触れるより深く学べる(ガイダンス・展示施設等隣接)
| 区分・種別 |
国指定
国宝
工芸品
|
|---|---|
| 時代 | 南北朝時代
|
| よみ | おおたち いっく むめい でんぶんごともゆき つけたりのだちごしらえ
|
| 名称 | 大太刀 1口 無銘 伝豊後友行 附野太刀拵
|
| 所在地 | 今治市大三島町宮浦
|
| 所有者 | 大山祇神社
|
| 管理団体 | |
| 指定年月日 | 昭和33年2月8日
|
解説
大太刀は、刃長180センチメートル、反り5.4センチメートル、元幅4.6センチメートル、先幅3.3センチメートル、鋒長10センチメートル、茎(なかご)長58.5センチメートル、鎬造(しのぎづくり)、丸棟(まるむね)、非常に大きくて長い。
鍛えは大板目流れ、刃文は互(ぐ)の目調の小乱刃である。区(まち)上6センチメートルのところで焼落ししている。表裏に樋先の下がった棒樋をほり、区上で丸留めにしている。
茎は生ぶで長く、栗尻、鑢(やすり)目は勝手下り、目釘穴は2個である。銘は刻していないが、南北朝時代の豊後国の刀工友行の作と鑑定されている。
附属の拵を見ると、柄(つか)は革で包み敲(たたき)塗り(石目地に黒漆塗り)し、鞘は黒漆塗りの薄革と飴色の革で二重に包み、渡巻(わたりまき)のところはさらに黒革で菱に巻いている。鐔(つば)は木瓜(もっこう)形の練革を重ね黒漆をかけ、金銅の覆輪をかけてある。
足金物と責金(せめがね)とは本来つけていない。拵えの全長は275センチメートルあまりある。
大太刀、野太刀拵ともに14世紀鎌倉時代末期から南北朝時代の代表的作品といえるもので、『集古十種(しゅうこじゅっしゅ)』にも載せられている。
この太刀は、湊川合戦で楠正成を討って功をたてた伊予国の人、大森彦七の愛刀であったものである。
文明2(1470)年、孫の大森直治が大山祇神社に田地3反を寄進しているが、その際、この太刀を添えたことを示す文書が残されている。
鍛えは大板目流れ、刃文は互(ぐ)の目調の小乱刃である。区(まち)上6センチメートルのところで焼落ししている。表裏に樋先の下がった棒樋をほり、区上で丸留めにしている。
茎は生ぶで長く、栗尻、鑢(やすり)目は勝手下り、目釘穴は2個である。銘は刻していないが、南北朝時代の豊後国の刀工友行の作と鑑定されている。
附属の拵を見ると、柄(つか)は革で包み敲(たたき)塗り(石目地に黒漆塗り)し、鞘は黒漆塗りの薄革と飴色の革で二重に包み、渡巻(わたりまき)のところはさらに黒革で菱に巻いている。鐔(つば)は木瓜(もっこう)形の練革を重ね黒漆をかけ、金銅の覆輪をかけてある。
足金物と責金(せめがね)とは本来つけていない。拵えの全長は275センチメートルあまりある。
大太刀、野太刀拵ともに14世紀鎌倉時代末期から南北朝時代の代表的作品といえるもので、『集古十種(しゅうこじゅっしゅ)』にも載せられている。
この太刀は、湊川合戦で楠正成を討って功をたてた伊予国の人、大森彦七の愛刀であったものである。
文明2(1470)年、孫の大森直治が大山祇神社に田地3反を寄進しているが、その際、この太刀を添えたことを示す文書が残されている。
所在地
地図の読み込みに関する問題が発生したとき<外部リンク>






