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ハンセン病の歴史1

ページID:0017607 更新日:2023年8月17日 印刷ページ表示

ハンセン病を正しく理解するためには、その歴史的経緯を知ることが重要です。

過去に起きた事実を受け止め、それを次の世代に伝えていくことも、ハンセン病への正しい理解、そして、ハンセン病と同じような過ちを二度と繰り返さないことにつながります。

ハンセン病の歴史(昭和以前)

年代

出来事

解説

飛鳥時代~平安時代

聖徳太子が四天王寺を建立、病者及び貧者のための悲田院、療病院及び施薬院をこれに併設(594年)。

飛鳥時代から平安時代にかけては、仏教の影響を受けて病者や貧者に対する公的な慈善事業が盛んであったが、ハンセン病患者も救済の対象であったと考えられる。

鎌倉時代

忍性がハンセン病患者を収容・救済するために「北山十八間戸」を設立(1240年)。

朝廷や寺院の勢力が衰退する中で仏教の救済活動は低調であったが、忍性は例外であった。忍性は奈良にわが国最古のハンセン病患者の救護、北山十八間戸を創設した。彼は、そこから、手足が不自由で歩けない重症患者を背負って毎日暁に町に出て、物乞いをさせて夕方再び背負って戻り、生活を成り立たせてやった、という逸話は広く知られている。
忍性のほかに一遍などの僧侶が救済活動を行ったといわれているが、その数は多くない。

室町時代~江戸時代

 

キリスト教の伝来から徳川幕府の鎖国令が発せられるまでの約100年間は、渡来した宣教師の中にハンセン病患者の救済に熱心な人がおり、これらの人の影響を受けて、キリスト教を信仰していた大名や豪商などによって、収容施設が設立されるなどの患者救済活動が行われた。

明治

6

1873年

ノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師がハンセン病の病原体である「らい菌」を発見。

アルマウェル・ハンセン医師は、明治6年にらい菌を発見し、明治7年にこれを発表したが、学会の承認はなかなか得られなかった。明治12年に細菌学者のナイセルがこれを確認してから、少しずつ一般に認められるようになった。
しかし、日本では、ハンセン病の原因については遺伝説が支配的で、伝染説は容易に受け入れられなかった。
遺伝であると誤解されていたこと自体が、らい菌の感染力が極めて弱いことを証明している。

明治

8

1875年

後藤昌文医師が国内初のハンセン病の専門病院「起廃院」を設立

明治の初期には、ハンセン病患者のための公的な施設はなかったが、一部の医師や外国人宣教師などが熱心な救済活動や病院設立を行っていた。
しかし、外国人が多くの困難を克服して、ハンセン病患者救済にあたっていたのに、日本政府が何の対策もとらなかったため、きびしい外国からの批判があった。この批判が、後に「癩予防ニ関スル件」が制定されるに至った大きな推進力のひとつとなった。

明治22年

1889年

フランス人神父のテストウィードがハンセン病療養所(静岡県 後の神山復生病院)を設立。

明治27年

1894年

アメリカ人宣教師ゲーテ・ヤングマンが設立した好善社という団体が「慰廃園」(東京都)を設立。

明治28年

1895年

イギリス人伝道師ハンナ・リデルが「回春病院」(熊本県)を設立。

明治30年

1897年

第1回国際らい会議(ベルリン)

ハンセン病が感染症であることが確認される。

明治31年

1898年

フランス人神父ジョン・メリー・コールが「待労院」(熊本県)を設立。

 

明治40年

1907年

癩予防ニ関スル件」が制定され、浮浪患者の収容が始まる。

国の財政上の理由もあり、療養の途がなく救護者のない者のみが対象とされた。ハンセン病が文明国として不名誉であり恥辱であるとする国辱論の影響を強く受けたものであると同時に浮浪患者の救済法としての性格も持っていた。

明治42年

1909年

全国5か所に府県連合立療養所(公立療養所)が開設される。

  • 第一区 全生病院(東京都 後の多磨全生園)
  • 第二区 北部保養院(青森県 後の松丘保養園)
  • 第三区 外島保養院(大阪府 昭和9年の室戸台風で壊滅的被害を受け、その後復興されず)
  • 第四区 大島療養所(香川県 後の大島青松園)
  • 第五区 九州療養所(熊本県 後の菊池恵楓園)

第2回国際らい会議(ベルゲン)

らい菌の感染力が弱いことが確認される。

明治43年

1910年

全生病院で寺子屋形式の授業が開始される。

全生病院では、礼拝堂を教室として、生徒数30人程度で授業が開始された。続いて大島、九州の療養所でも児童の教育事業が開始されたが、何れにおいても、所長が校長であり、有識の入所者が教師であった。教科書や文房具も不十分であったため、親元を離れ、病気と闘っている児童たちにとっては、とても厳しい状況であった。

大正

4

1915年

全生病院で断種手術が開始される。

療養所内での男女間の交渉を認めることが秩序維持につながると考えた光田健輔(当時全生病院院長)が、結婚を許す条件としてワゼクトミー(精管切除)を実施したことがきっかけとなり、全国の療養所でワゼクトミーが実施されるようになった。
昭和14年までに1,000人以上の患者にワゼクトミーが実施された。

大正

5

1916年

「癩予防ニ関スル件」の一部改正により、療養所長に懲戒検束権が与えられる。

懲戒検束権の法制化により、療養所長の取締まりの権限が強化され、療養所の救護施設としての性格は後退して、強制収容施設としての性格が強くなった。
大正6年に「患者懲戒・検束に関する施行細則」が定められたが、この細則による懲戒検束事由の定めは極めて抽象的であり、恣意的な運用の危険を含み持つものであった。例えば、風紀を乱したとか、職員の指揮命令に服従しなかったという理由で減食等の処分の対象とされ、また、逃亡し又は逃亡しようとしたとか、他人を煽動して所内の安寧秩序を害し又は害そうとしたという理由で監禁等の処分の対象とされた。

大正12年

1923年

第3回国際らい会議(ストラスブルグ)

ハンセン病の予防上隔離政策が有効ではあるが実施にあたっては柔軟な態度でのぞみ、細かい配慮を払うべきだということが決議された。

昭和

4

1929年

愛知県の民間運動が発端となり、「無らい県運動」が始まる。

無らい県運動は、昭和4年における愛知県の民間運動が発端になり、その後、岡山県、山口県などでも始まった。しかしながら、日中戦争が始まった昭和11年頃からこの運動の様相が変化し、全国的に強制収容が徹底・強化されるようになった。
その後の戦時体制の下、全国津々浦々で、無らい県運動により、山間へき地の患者もしらみつぶしに検索するなどの徹底的な強制収容が行われ、これまで手がつけられていなかったハンセン病患者の集落もその対象となった。
このような無らい県運動の徹底的な実施は、多くの国民に対し、ハンセン病が恐ろしい伝染病であり、ハンセン病患者が地域社会に脅威をもたらす危険な存在であるといった誤った認識を強く根付かせる原因となった。

昭和

5

1930年

内務省衛生局が「癩の根絶策」を発表。

この「癩の根絶策」は、ハンセン病に対する恐怖心や嫌悪感をいたずらに煽り立て、国辱論も交えながら、ハンセン病患者をことごとく隔離する絶対隔離政策が唯一の正しい方策であり、これを行わなければハンセン病の恐怖からは永久に逃れられないとの強迫観念を国民に植え付けるものであった。

初の国立療養所「長島愛生園」(岡山県)が開園。

新設する療養所の候補地探しを命じられたのは、全生病院長であった光田健輔であったが、光田院長は、「患者隔離」の観点から島か半島が最適として候補地探しを行い、昭和4年10月、長島の地に療養所を新設することが決まった。
当時のハンセン病に対する一般の理解度は極度に低く、設置が決まった地元住民も例外ではなく、土地買収も秘密裏に行われ困難を極めたが、地元村長の深い理解などもあり、昭和5年11月20日、国立第1号の療養所である長島愛生園が開園した。

昭和

6

1931年

「癩予防法」が制定され、在宅患者の強制隔離が開始される。

昭和6年に「癩予防ニ関スル件」がほぼ全面的に改正され、「癩予防法」との題名が附された。主な改正点は、

  1. それまでは療養所入所対象が「療養ノ途ヲ有セス且救護者ナキモノ」とされていたが、これが「癩患者ニシテ病毒伝播ノ虞アルモノ」とされたこと
  2. 行政官庁はらい予防上必要と認めるときは、一定の職業に従事することを禁じ、また、古着、古布団などで病毒に汚染し又は汚染の疑いのあるものの売買、収受を禁止し、これらのものの消毒・廃棄を命じ、若しくは消毒・廃棄を行うことができるとされたこと

である。

昭和

7

1932年

国立療養所「栗生楽泉園」(群馬県)が開園。

 

昭和

8

1933年

国立療養所「宮古療養所」(沖縄県 後の宮古南静園)が開園。

昭和

9

1934年

室戸台風により、外島保養院が壊滅的な被害を受ける。

昭和10年

1935年

国立療養所「星塚敬愛園」(鹿児島県)が開園。

昭和11年

1936年

長島愛生園で「長島事件」がおきる。

昭和13年

1938年

第3区連合府県立「邑久光明園」(岡山県)、「国立療養所「国頭愛楽園」(沖縄県 後の沖縄愛楽園)が開園。

昭和14年

1939年

国立療養所「東北新生園」(宮城県)が開園。

栗生楽泉園に「特別病室」(重監房)が設置される。

この特別病室は、厳重な施錠がなされ、光も十分に射さず、冬期には気温がマイナス17度にまで下がるという極めて過酷な環境で、全国の療養所で不良患者とみなされた入所者の監禁施設として利用された。監禁された理由については、書類不備のため明らかでないものが多いが、他の被懲戒者と連座的に監禁された人もいるなど、懲戒検束権の運用が極めて恣意的に行われていたことがうかがわれる。

昭和15年

1940年

厚生省が「無癩県運動」の徹底を通知。

療養所では、入所者の外出・脱走を防ぐ目的で、現金所持は許されず、療養所内だけで使用できる園内通用券(園券)が使われた。
また、入所者の中には、入所時に園名と呼ばれる異名を付けられた経験を持つ人も多い。園名の由来は、必ずしも明らかではないが、家族に差別・偏見が及ぶのを防ぐことのほか、これまでの人生と決別させるというような心理的な意味合いが含まれていたことも想像される。

「本妙寺集落の手入れ」が行われる。

 

昭和16年

1941年

日本らい学会で小笠原登博士が糾弾される。

小笠原登博士は、愛知県甚目寺町にある円周寺の二男として生まれた。祖父・小笠原啓導は僧侶であるとともに、漢方医学でハンセン病、淋病、梅毒、瘰癧(るいれき)などの治療をしたといわれている。大正4年京都帝大医学科を卒業後、同校で薬物学を研究。大正14年、皮膚科泌尿器科に転じ、翌年に皮科特別研究室(のちに皮膚病特別研究施設と改称)の主任となり、昭和16年には同大学の助教授となる。小笠原登博士は、らいの発病は感染よりも体質を重視すべきこと、らいは不治ではないとの考えから、当時の隔離政策に反対したが、当時の学会などでは彼の主張が受け入れられることはなかった。

松丘保養園、多磨全生園、邑久光明園、大島青松園及び菊池恵楓園が国立療養所に組織変更される。

戦前、入所者では身体的に可能である限り患者作業という労働が割り当てられ、職員の人員不足が恒常化していた当時の療養所の運営を支えていたが、戦後になってもこのような状況はなかなか改善されず、療養所運営は患者作業に依存するところが大きかった。
患者作業は多種多様で、治療・看護部門から、給食、配食、清掃、理髪、火葬など生活全般に及んでおり、中にはハンセン病患者に行わせることが不適当な重労働も含まれていた。

昭和17年

1942年

大島青松園の「大島学園」が国民学校令に基づく「庵治第二国民学校養護学級」として認可される。

大島青松園に続いて松丘保養園でも同年「松丘国民学校」が、昭和19年に長島愛生園でも「裳掛国民学校第二分教場」が、翌昭和20年に邑久光明園でも「裳掛国民学校第三分教場」が国民学校令に基づく教育機関として認可された。しかしながら、以前として教師は入所者が務め、教材費などの予算も皆無で、正規の教育機関とは言いがたい状況であった。
その後、太平洋戦争が激化していくと、児童も自給自足のための奉仕に駆り立てられ、食糧難もとても厳しかったので、栄養失調と疲労が重なり、医師不足から十分な治療も受けることができず、病気を悪化させ、幼くして死んでいく子どもが相次いだ。

昭和18年

1943年

国立療養所「奄美和光園」(鹿児島県)が開園。

戦後、奄美群島は沖縄と共に米軍の統治下におかれたため、和光園も奄美群島政府の管轄とされていたが、昭和28年に祖国復帰、厚生省の所管となった。

アメリカのカービル療養所のファジットが、プロミンにハンセン病の治療効果があることを発表する。

プロミンが治療に使われるようになるまでは、江戸時代に中国から伝わったといわれる大風子油(大風子は、熱帯、亜熱帯地方に自生するイイギリ科の植物であり、直径10センチほどの実をつけ、中には小さな種子がたくさん詰まっている。この種子をしぼった油が大風子油)がハンセン病の唯一の治療薬で、主に筋肉注射で投与されていた。大量に油性物質を注入するため痛みが強く、大人が涙を流すほど痛かったといわれている。
大風子油は、一部で効果があったものの、多くの場合、期待できるほどの効果はなかったといわれている。

昭和20年

1945年

国立療養所「駿河療養所」(静岡県)が開園。

療養所に収容されるハンセン病患者は、「らい患者輸送中」などの張り紙が張られた「お召し列車」といわれる患者専用の客車やトラックなどにより療養所へ運ばれた。

昭和22年

1947年

日本でプロミンの使用が始まる。

プロミンの登場は、それまで確実な治療手段のなかったハンセン病を「治し得る病気」に変える画期的な出来事であった。
しかし、当初、政府のプロミン購入予算は十分ではなく、投与を希望する全員には行き渡らなかったことから、全国の患者が一丸となって獲得運動を開始し、この運動が実り、昭和25年には、十分な政府予算が計上された。
以降、様々な化学療法が進歩し、経口治療薬DDSなどが登場して在宅治療も容易になった。

大島青松園の庵治小学校養護学校と中学校養護学校に教育委員会からはじめて教師が派遣される。

教育基本法の施行に伴い、大島青松園の庵治小学校養護学校と中学校養護学校が認可され、教育委員会からはじめて教師が派遣された。翌年昭和23年には長島愛生園でも裳掛小・中学校第二分校が認可され、その後、各療養所でも認可が進んでいったが、周囲の環境や理解の違いから、認可までには、療養所によって大きなばらつきがあり、最後の栗生楽泉園の草津町立小・中学校第一分校が認可されたのは昭和29年であった。
また、派遣される教師は少なく、入所者が補助教師として児童の教育にあたる状況が長期間続くとともに、予防医やマスクを着て授業を行う教師もおり、児童の立場にたった教育とは言いがたい内容であったと考えられる。

昭和23年

1948年

「優生保護法」の対象にハンセン病患者が加えられる。

「不良な子孫の出生を防止する」などの目的で優生手術(断種)や人工妊娠中絶(堕胎)を認めた法律「優生保護法」の対象にハンセン病患者も加えられた。この法律は平成8年に廃止されたが、それまでにハンセン病を理由とする優生手術は1,400件以上、人工妊娠中絶の数は3,000件以上にも上った。

昭和25年

1950年

栗生楽泉園殺人事件が起こる。

 

昭和26年

1951年

全国国立らい療養所患者協議会(全患協1952年全国ハンセン病患者協議会に改称)が結成される。

日本国憲法の施行に伴って療養所入所者の人権意識が高まり、栗生楽泉園特別病室事件、プロミン獲得運動等を契機に入所者が団結して隔離政策からの解放を求める動きが活発になった。そして、昭和26年2月に、入所者の全国組織である全患協が結成され、この全患協が中心となって「癩予防法」の改正運動が盛んになった。
昭和28年3月に内閣が提出した「らい予防法案」を入手すると、入所者は旧法(癩予防法)と比べてほとんど改善されていないとして強く反発し、予防法闘争と呼ばれるハンストや作業スト、国会議事堂前での座り込み等の激しい行動が行われた。

国立療養所の3園長が国会(参議院厚生委員会らい小委員会)で参考人として証言

委員会での参考人5人の発言のうち、林芳信(当時の多磨全生園長)、光田健輔(当時の長島愛生園長)及び宮崎松記(当時の菊池恵楓園長)の3人の国立療養所長の発言が、ハンセン病患者の強制収容、断種の励行、入所者逃走防止のための罰則強化等を内容とするものであったことから、入所者の間で大きな問題となった。全患協は園長らを追及し、癩予防法改正の気運を高めた。

藤本事件の発端となる事件が起こる。

 

昭和28年

1953年

「癩予防法」を改正した法律。日本国憲法制定後、プロミンの登場、入所者の激しい抗議行動にもかかわらず、強制隔離の基本方針や懲戒規定はそのまま存続された「らい予防法」が成立した。この法律には、即時強制を含む入所措置、外出制限、従業禁止、汚染場所の消毒、物件の消毒・廃棄・移動の制限等の規定はあるものの、退所に関する規定はなく、この法律の存在自体が、ハンセン病に対する偏見・差別の作出、助長、維持に大きな影響を与えた。このような法律が存在する以上、人々がハンセン病を必要以上に恐れることは無理からぬところであり、法律が存在し続けたことの意味は非常に大きい。

昭和29年

1954年

黒髪校事件。菊池恵楓園附設の児童福祉施設竜田寮児童の入学拒否運動が起こる。

 

昭和30年

1955年

長島愛生園内に「岡山県立邑久高等学校定時制課程新良田教室」が開校。

昭和28年の「らい予防法」の制定は、入所者にとっては不満足なものであったが、高等学校の設置は、事前の運動の成果であった。それまで行われてきた入所児童の義務教育に加えて、高等学校教育が受けられるようになった。地理的条件から長島愛生園に設立されることとなり、昭和30年9月16日に新良田教室が開校した。
しかし、開校当時、教師は白い予防衣、ズボン、帽子姿で、生徒の職員室への立入りは禁止、答案や作文などは消毒箱に入れてから手にするなどの状態の中で授業が行われ、生徒と教師の間には大きな距離があった。
開校以来307名の生徒を送り出したが、昭和62年春、新入学者がなくなり閉校した。

昭和31年

1956年

「らい患者の救済及び社会復帰に関する国際会議」(ローマ)

マルタ騎士修道会によって開催されたこの国際会議では、「らいが伝染性の低い疾患であり、且つ治療し得るものであるとして、差別待遇的な諸立法の撤廃、在宅医療の推進、早期治療の必要、社会復帰援助等が決議される。

昭和35年

1960年

WHO(世界保健機関)がハンセン病患者の差別法撤廃と外来治療を提唱。

WHO第2回らい専門委員会(昭和34年ジュネーブ、報告書は昭和35年に発行)では、「この病気は直接向けられた特別な法律は破棄されるべきである。一方、法外な法律が未だ廃されていない所では、現行の法律の適用は現在の知識の線に沿ってなされなければならない。(中略)無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止されなければならない。」として、昭和31年のローマ会議以降繰り返し提唱されてきたハンセン病特別法の廃止が一層強く提唱された。

昭和46年

1971年

リファンピシン治療開始

リファンピシンは、もともと抗結核剤であったが、らい菌に対して強い殺菌作用を有していることが判明し、日本でも昭和46年頃からハンセン病治療に用いられるようになった。リファンピシンを服用すると、数日で体内かららい菌の感染力を失わせることができるとされていて、これにより化学療法は更に進歩した。
昭和56年からはWHO(世界保健機関)の提唱のもと、リファンピシンに加えてファジミン及びダプソン(ジアフェニルスルホロン)の三つの薬を使用する多剤併用療法が行われることとなる。

昭和63年

1988年

岡山県の長島に人間回復の橋と呼ばれる「邑久長島大橋」が開通。

長島愛生園と邑久光明園が所在する長島と対岸の虫明を隔てるわずか30メートルしかない水路に橋を架けることを長島愛生園と邑久光明園の自治会で話し合われるようになったのは昭和43年頃であった。そして、昭和47年には架橋促進委員会が組織され、架橋への積極的な運動がはじまり、その後、各関係機関への陳情が繰り返しされ、さまざまな問題を乗り越え、約17年間の活動の後昭和63年5月9日、隔離の必要のない証としての「人間回復の橋・邑久長島大橋」が開通した。

この年表は、「日本らい史」(山本俊一 著)、復権の日月(全国ハンセン病療養所入所者協議会 編)、「らい予防法」違憲国家賠償請求事件判決、同裁判原告団の最終準備書面等を参考に作成しました。

 

平成以降の歴史については、「ハンセン病の歴史2」を御覧ください。

 

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