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更新日:2018年4月1日
出典:愛媛県史 愛媛県史 文学(昭和59年3月31日発行)
「第5章 近代現代 第1節 短歌」より(抜粋)
愛媛における明治の歌壇情勢を理解するためには、一応それ以前にさかのぼる江戸末期の動静を説くことから始めねばならぬ。
当時、国学の四大家として名のあった荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤らの思想を引く国学の勃興は全国各地にその影響を及ぼした。
愛媛の地もこの気風の中から多くの国学者や歌人の輩出を見るとともに、おのずから地域的にそれぞれの歌壇を形成したのは当然の成り行きでもあった。
愛媛の場合は鈴屋一門の本居宣長・本居大平・本居内遠・本居春庭・足代弘訓らの薫陶をうけた人々が多く、またすぐれた歌人が次々に生まれている。
足代弘訓に学んだ宇摩の真鍋豊平・今治の半井梧菴・大洲の常磐井厳戈また荒木田久老に師事し、のちに本居宣長に入門した八幡浜の野井安定・野田広足・梶谷守典・二宮正禎を数える。
本居大平の門下では宇和島の穂積重麿・宍戸大瀧、南宇和の二神永世らがある。
なかんずく、八幡浜を中心とする鈴屋系の活動は実にけんらんたるものがあり、国学の研究と和歌の実作に多くの門人が競いあった。その傾向は明治20年頃までつづいたのである。・・・(435ページ)
明治31年2月「歌よみに與ふる書」を新聞「日本」に発表。正岡子規はかねて意図していた和歌革新の第一声をあげた。
この文章は10回にわたり連載されたが、論旨苛烈をきわめて、檄文ともいうべきであって、当時の御歌所に寄る桂園派の人々に占められた歌風を一種の堕落として攻撃した。忽ち大きな反響を起こし、巷間の声は毀誉褒貶相半ばした。
一時はその過激を戒める忠告者も出るほどの騒ぎとなり、子規も苦慮する面がないでもなかった。
しかし、一たび決意した子規の主張はすこしも譲るところなく、あくまでも旧派の脱皮と革新の説をつらぬくために、あらゆる抵抗と戦った。時の経つにつれて和歌革新の説は正論として世間にひろく迎えられ、次第に子規の傘下に加わる共鳴者も多く現れるようになった。
伊藤左千夫(千葉)・長塚節(茨城)・香取秀真・岡麓(いずれも東京)・赤木格堂(岡山)らがそれである。・・・(443ページ)
大正年代の歌壇は、若山牧水の主宰する「創作」の系統、今一つは窪田空穂、松村英一の拠る「国民文学」の系統によって主流を形成、これらの流れを汲む人々により、意外に華々しい短歌活動が見られた。
その頃、特に中央で盛名を挙げた牧水の歌風が地方に及ぼした影響は著しく、愛媛の場合も例外ではなかった。
一方、地味なうごきではあったが、空穂の温籍平明な歌柄に心を寄せた若い人々の一団があった。・・・(447ページ)
昭和の初期は、県下の各地でそれぞれに地域的な背景をもつ短歌雑誌が相次いで生まれ、かつ短命に消えていった、眼まぐるしい時代である。
たとえば、「風艸」「青雲」「くさの葉」「にぎたづ」などの名を挙げることができる。
これと同時に、「アララギ」、「あけび」、「覇王樹」など中央結社につながる集団的勢力が次第に台頭を見せ始めたのは、自然のいきおいと言いながらもあたらしい一つの傾向として見逃しがたいものがある。・・・(449ページ)
昭和20年戦争終結、平和を取りもどした国内の文化活動は俄かに溌剌となった。
そのことは愛媛歌壇の場合も同じく、各地に於てあたらしく短歌集団の台頭、これに伴う機関紙の発行などが人々の注目をあつめた。
宇摩郡川滝村(現在四国中央市)の「須美礼」(佐伯冨重)、周桑郡石根村(現在西条市)の「いしづち」(伊藤隆志)、上浮穴郡久万町(現在久万高原町)の「やまびこ」(田村嘉寿美)、伊予郡中山町(現在伊予市)の「せせらぎ」(飛田吉一)、大洲市の「ひぢ川」(河田澄雄)、東宇和郡俵津村(現在西予市)の「やまなみ」(西田亀八)など、それぞれの地域でささやかながら短歌のともしびをかかげて先駆の役目を果たした。
その頃、即ち昭和21年に注目されたのは「いづかし」と「若鮎」の発足である。(460ページ)
総合団体としては、昭和37年10月に発足した「愛媛歌人クラブ」。
県下一円の各派会員を傘下におさめて初代会長佐伯秀雄、二代会長大野静、昭和51年から会長弘田義定就任、現在に及んでいる。
これを支える形において東予歌人協会は昭和45年5月に設立、初代会長に藤原弘男、ついで有吉菊一、粂野為逸のあと山上次郎が継いでいる。中予地区は松山歌人会(会長弘田義定)、また南予歌人クラブは山内直を会長として、以上三ブロックによる県下統一の形態がとられている。・・・(473ページ)
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