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更新日:2018年4月1日
出典:愛媛県史 愛媛県史 文学(昭和59年3月31日発行)
「第5章 近代現代 第3節 川柳」より(抜粋)
暁雲黎明
明治36年ごろ酒井久良伎・井上剣花坊が、のち岡田三面子・田能村朴念仁らが加わり、川柳誌・川柳句集を出刊し川柳復興・新川柳運動をはじめ、全国各地の新聞社に協力を求め川柳欄の設置を要請した。
久良伎・剣花坊の川柳欄開設・川柳募集の要望にすばやく応じたのが南海新聞であった。・・・
南海新聞は明治39年9月の創刊30周年記念行事のひとつとして「懸賞付文芸大募集」を企画発表し、川柳をも募集した。選者は窪田而笑子であった。・・・(576ページ)
柳運間歇
窪田而笑子は県柳人を主軸とした柳誌出版を企画し、大正元年8月15日「新柳眉」を発行したが大正2年3月で終わった。
これは当時県下の柳人たちの間に雑誌発行の計画があったことにも原因があった。
県下柳人こぞって参加し柳雑「凩」を発行したのは大正2年1月であった。・・・(579ページ)
柳誌叢生
昭和2年、大阪の「番傘川柳社」が、4年に「川柳雑誌社」が松山に支部を設けた。
この時期になると明治から大正初期にかけて活躍した川柳家の多くはほとんど影をひそめ新人の進出が著しく、作風も近代川柳に変わる。
海南新聞選者・媛柳松山支部長・松山川柳会長・番傘客員・川柳雑誌客員としての(前田)五健(のち伍健)の川柳活動が顕著となってくる。
五健は、川柳が「真実の・情味の・美しき」詩であるとし“川柳真情美”を唱えた。・・・(582ページ)
百花繚乱
山本耕一路が疎開先の松山市石井北土居から発行した「あゆみ」21号はまさに持続する魂そのものといえる。
昭和20年の暮から21年5月にかけて今治市「みなと吟社」、宇和島市「鹿の子吟社」、大洲市「水郷川柳社」・「かじか川柳社」、伊予三島市「八綱川柳会」が復活し創立され、川柳誌「鹿の子」が再刊された。
昭和21年7月14日、耕一路主宰の「あゆみ」30号を記念して「愛媛川柳大会」が松山高等学校生徒集会所で開催され、大会後「愛媛県川柳文化連盟」が結成された。会する柳人は前田五健以下53名であった。・・・
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