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更新日:2018年4月1日
出典:愛媛県史 愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)
「第3章 茶華道」より(抜粋)
伊予の喫茶は、室町時代に禅宗の僧侶によって伝えられたものであるといわれる。
千利休が大成したわび茶の道は、戦国大名の「たしなみ」としてもてはやされ、古くは慶長のころ、藤堂高虎や加藤嘉明、その跡を受けた宇和島の伊達秀宗、大洲の加藤貞泰、松山の松平定行などは、それぞれ茶の湯を愛し、たしなんだ。(516ページ)
ことに松平定行は、裏千家六世 (庵)に命じて隠居地とした東野に庭園を築かせ、「竹のお茶屋」を建てるなど、風流を楽しんだ。また、宗安に「茶道師範」として二百石を扶持し、屋敷を与えるなどの処遇をしている。
定行の弟定政は東野の吟松庵に隠棲し、「不白」と号して茶を楽しんだが、のち、茶道「不白流」の祖となった。このように大名の有形無形の保護によって茶道は急速に普及し、武士の「たしなみ」ともされ、各藩では、「茶道方」を置き、扶持している。(516ページ)
正岡子規の玄祖父一甫も茶道方として松山藩に仕えているが、茶道と深いかかわりを持つものに俳諧がある。
松永貞徳以降、多くの俳諧人は好んで茶の湯に親しんだ。伊予においても北村季吟門の桑折宗臣とその門流、松山の奏一景や天野目弓ら「わび・さび」を求める芭蕉門の久松粛山、青地彫棠らは藩主定直とともにこよなく茶を愛した。
また既に元禄の時代より藩の御用達となって資力をもった町方商人は「茶の湯」に凝り、茶器の名器を競い合い、所有することが最大の誇りでもあった。
武野紹鴎、千利休、沢庵禅師、小堀遠洲などの書幅、三島や長次郎の茶碗、与次郎や寒雉の茶釜、等々が諸家に伝存している。
このようにして、茶道は、天明~文政ころには一層その底辺を広げ、地方の豪族(庄屋)にも数寄者を拡大していった。・・・
このころ、松山の俳人栗田樗堂、百済魚文、吉田の高月虹器、西条の木村牧雨、土居の山中時風などの俳人たちはそろって茶の湯に風流を求めた。(516ページ)
また茶会の記録も文化9年(1812)頃より流行した。記録というのは今日でいう会記のことであるが、掛幅・茶器・料理などの詳細な記述や、松山藩江戸上屋敷での茶会の記録など、当時の様子がよくうかがえる。・・・(517ページ)
さて、一方、煎茶の通は、寛永のころ、黄檗僧隠元の来朝によってもたらされる。
わが伊予では、「南海法窟」といわれる、千秋寺の創建以来、千ガイ、雪テレ、別峰、妙庵などの先覚者によって、「売茶流茶道」は一般に迎合せられ、多くの流派を生みながら流行していくのである。・・・(518ページ)
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