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更新日:2018年4月1日

愛媛県史にみる愛媛文化史・連句

 愛媛県史にみる愛媛文化史(昭和まで)

連句

出典:愛媛県史 愛媛県史 文学(昭和59年3月31日発行)

「第5章 近代現代 第3節 俳句・連句」より(抜粋)

愛媛の連句の源流

昭和58年6月11日、東京・芝・増上寺の増上寺会館に全国連句人160余人が集まり、第二回全国連句大会と第一回「連句懇話会賞」の授与式があり、この日、参加連句人によって21巻の連句が巻かれた。昭和の現代に「連句壇」が出来たともいえよう。-(宇咲冬男の文による。)

この大会には、本県から6名参加し、鈴木春山洞は「捌き」をつとめた。本県にも「連句壇」が出来たともいえる。

このように隆昌を来した現代の連句の源流は芭蕉一門の「俳諧」(五・七・五の句を発句とし、次に七・七の句〈脇句〉を付け、さらに五・七・五の句〈第三〉に七・七の句と交互に連ねて、100句、50句又は36句に及ぶもの。36句形式のものを「歌仙」といい、これが最も多い。)であり、古くは「俳諧の連歌」と呼ばれ、さらにその源は、中世の「連歌」、ということになる。

このことは本書の、第3章中世・第4章近世の記述に譲り、ここでは、明治初期から現代に至る「連句」-古式の呼び方では、「俳諧の連歌」(俳諧)の流れを見てゆくことにする。・・・(570ページ)

明治期

明治初年の本県の俳誌「真砂の志良辺」・「俳諧花の曙」の中には、「俳句」(当時の人の言い方では「発句」)の外に、「俳諧の連歌」の作品が数多く見られ、明治23年頃まで「俳諧の連歌」ということばが生きていて、これを楽しむ人々がたくさんいたのである。

今日われわれが使っている「連句」という語は、『現代俳句大辞典』(明治書院刊)によれば、「高浜虚子により明治37年、「ホトトギス」9月号(第7巻・第12号)で初めて用いられた・・・」とある。・・・(570ページ)

大正期

大正時代に「連句」を大きくとり上げたのは松根東洋城(宇和島)である。

彼は、芭蕉に真の俳諧の境地を認め、また、真の俳句の真髄にまで突き入るのには、芭蕉の「連句」を味解しなくてはならない、として、「渋柿」(大正12年7月号以降)に「日本文学の諸断面(其一)連句」を連載して注目を引き、この「連句研究」の上に、寺田寅彦らとの連句(歌仙)の実作をも、数多く発表している。・・・(572ページ)

昭和前期

昭和前期の連句について、まず取り上げなければならないのは、昭和13年4月、高浜年尾の編集・発行で、俳誌「俳諧」が創刊されたことである。

本誌は、虚子が、俳諧文芸の中で俳句ばかりが盛んで、連句(外に、俳文・俳画・俳諧詩など)が振るわないことを残念に思い、特に連句の創作・復興を目的として、長男の年尾に出させた雑誌である。

高浜年尾は、さらに、戦後の、文化に飢えている社会に対して、昭和21年6月、『俳諧手引』(創元社・百花文庫)という、連句の啓蒙的な著作を刊行したことも、特記すべきことであった。・・・(572ページ)

昭和後期

昭和45年6月創刊の「すばる」誌上に安東次男の「芭蕉七部集評釈」が連載されたり、この年、信州大学教授・東明雅らによって、「昭和連句復興運動」が提唱されたりして、連句に光があたりはじめ、その盛り上がりを見せはじめたが、昭和50年に入っていよいよこの気運は高まり、全国的に連句研究が盛んとなり、『連句入門』(東明雅著・昭53)・『芭蕉連句評釈』(星加宗一著・昭50)など多数刊行され、専門誌には、「連句研究」(昭和50年創刊・阿片瓢郎)などがあり、昭和56年秋には、全国的組織として、「連句懇話会」、同57年、「全国連句大会」がそれぞれ発足し、連句見直しの機運がいよいよ高まって来た。・・・

以上のような全国的な状況のもと、本県には、現在、連句会が次々と誕生し、それぞれ、独自の活動を活発に続けている。・・・(573ページ)

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〒790-8570 松山市一番町4-4-2 

電話番号:089-947-5581

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