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更新日:2018年4月1日
出典:愛媛県史 芸術・文化財(昭和61年1月31日発行)
「概説」より(抜粋)
東雲神社の能面・能衣装・狂言面は、15万石に過ぎたものといわれたが、松山藩の能楽についてはほとんど解明されていなかった。
今回はじめて武家方資料のみならず、町方の能も明らかになった。
宇和島藩・大洲藩・西条藩についてもその緒を得た。明治以降は、池内信嘉らが中央で活躍するとともに、愛媛の能楽興隆に尽力し、地方としては格別の進展を見せ、今日の能楽会は、また希望に輝く発展を示している。・・・・(5ページ)
「第2章 能狂言」より(抜粋)
幕府が観世流を筆頭としたので松山藩は遠慮してシテには喜多流を採り、ワキ下掛宝生流、太鼓葛野流、小鼓幸流、太鼓観世流、笛森田流、狂言大蔵流八右衛門派とした。
11代藩主松平定通は何の故か下掛宝生流を好み奨励したので、後には能の地謡まで同流で謡われるようになった。・・・(490ページ)
幕府が町人に観能を許したのを真似て、松山藩でも何回も町入能が行われた。
中でも宝暦9年(1759年)8月7日から15日の5日間、松山城三の丸能舞台で行われた時、目付から町奉行へ達せられた書付の写は次の通り(写記載省略)である。・・・(491ページ)
高浜虚子の曽祖父雄蔵高年は、江戸留守居役在勤中に下掛宝生流6代家元の宝生新之丞に学び、能役者ではなかったが藩能の地頭を勤めたという。
能筆で藩次祐筆も勤め、たくさんの謡本を書き残し後年高浜本と呼ばれて同流謡本刊行の定本とされたといい、その一部が・・・愛媛県立図書館に保管されている。・・・(492ページ)
松山藩は佐幕方であったから明治維新は大変動で能どころではなかったのではと思われるが、それでも明治4年(1871)には旧藩主の新邸が落成して1月16日能が催され、2月・3月・5月と城中で能があり、池内信夫(高浜虚子の実父)は下掛宝生流で地頭を勤め酒肴や褒美をもらっている。・・・(499ページ)
旧藩では二ノ丸・三ノ丸に能舞台があったが、二ノ丸舞台所属の能面・装束は藩主が直々用いるお召口と呼ばれ、三ノ丸舞台のは並の物であった。
旧藩主の東京移住にあたり、三ノ丸舞台所属のものが払い下げられることになった。・・・(500ページ)
明治6年12月家禄・賞典禄奉還があり旧士族の生活は窮迫して演能団の運営も困難となり、翌7年旧藩主へ願い出て払い下げ代金の残額を棒引きしてもらい、代わりに能装束などは全部東雲神社へ寄付することになった。
久松家も東京へ持参した能面・装束など、一部は青山御所へ献上したが、残りは同神社へ寄付した。・・・(500ページ)
昭和20年7月26・27日の松山空襲で市街は瓦礫と化し、東雲神社能舞台も焼失して、住民は衣食住に追われ能楽どころではなかったが、幸い神社の面・装束類は焼け残り、道後公会堂(現子規記念博物館)も無事で能楽復興の基盤となった。・・・(511ページ)
昭和24年学生職場演劇発表会として出発したが、同27年から「えひめ芸術祭」となり、あらゆる芸能を網羅して県民に発表されることになった。
能楽部門は同28年から毎年各流派が交替して参加して水準の高さを示している。・・・(513ページ)
昭和40年松山市民会館に能舞台が常設されたのを機会に、能楽各流派の統合気運が高まり、同47年県下能楽関係者全員を集めた相互協力機関として社団法人愛媛能楽協会が設立され、会長には財界で知られた観世流の薬師寺真が選ばれた。
能楽の発展につれてともすれは各流会派が独り歩きする傾向が一新され、演能・後継者育成・研究調査・機関誌発行などの統合組織となった。・・・(513ページ)
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