文字サイズ
標準
縮小
拡大
色の変更
標準
青地に黄色
黄色地に黒
黒地に黄色

Foreign Language

  • 分類から探す
  • 組織から探す
  • 携帯サイト
  • リンク集
  • サイトマップ

ホーム > 教育・文化・スポーツ > 文化 > 文化振興 > 愛媛県史にみる愛媛文化史・俳句

ここから本文です。

更新日:2018年4月1日

愛媛県史にみる愛媛文化史・俳句

愛媛県史にみる愛媛文化史(昭和まで)

俳句

出典:愛媛県史 愛媛県史 文学(昭和59年3月31日発行)

「概観」より(抜粋)

近世

近世伊予文学の主流は俳諧であろう。

貞門派

貞門派―明暦ころ秦一景は久松家御用商人として来松、俳諧をひろめた。

延宝のころ宇和島藩家老桑折宗臣は、北村季吟門、自らの句文類のほかに、『大海集』(寛文12年1672)、『詞林金玉集』(延宝7年1679)は貞門俳諧史上最も特色のある撰句集である。

前者は宇和島藩156人、女子供盲人の句も収め、後者は97冊の俳書(うち本書で存在の知られるもの20数冊)から66国の俳人の句約2万句を編集、異色の貞門俳諧集なので、近年復刻された。

「綿子着てぢいさまのまねや雀の子 大久保氏 重好11才」・・・(9ページ

談林派

談林派―今治藩家老江島山水に梅翁判「山水十百韻」がある。

天和2年(1682)談林派の論客岡西惟中は、備中から松山を経て東予へと遍歴、紀行句集『白水郎子記行』や『俳諧三部抄』(延宝5年)などに各地風士の句を載せた。

大淀三千風は、三年後の貞享2年、讃阿土を経、南中東予と紀行、『日本行脚文集』に各地の俳人を掲げ、ともに地方の誹風を誘発した。(10ページ)

蕉門派

蕉門派―松山藩主三嘯久松定直は学芸を愛好奨励、其角門の家老久松粛山、藩医青地彫棠らと俳諧を嗜み「御用屏風」(西鶴・来山・鬼貫・言水らの短冊貼り交ぜ)を愛用(子規記念博物館に展示)。

芭蕉・其角・彫棠らの連句一巻は、のち松山に伝えられ、芭蕉没後77年、石手寺境内に埋められて芭蕉塚「打ち寄りて花入れさぐれ梅椿 芭蕉」となり、句集『花入塚』(明和7年1770)として刊行された。・・・(P.10)

淡々系

淡々系―宇摩郡入野(現在四国中央市)の山中関卜は淡々句碑をたて(宝暦12年1762年)、宇和島にまで同好者あり、静幽蘆の点印文台は、明治にいたるまで続いた。・・・(11ページ)

美濃系

美濃系―松山の臥牛洞狂平は、支考25回忌(宝暦5年)に道後円満寺境内に仮名詩碑を建てた。

京都の双林寺碑にならったもので、新体詩の源流と見られる珍しいものである(句集きさらぎ)・・・(11ページ)

葛飾系

葛飾系―二六庵竹阿は4回来松(其日ぐさ)、小林一茶はその師の跡を慕って、寛政7年(寛政7年紀行)と同8から9年の再度来松して、栗田樗堂を訪ねた。

栗田樗堂は加藤暁台門で井上士朗と双璧、子規によれば近世伊予第一の俳人であるという。・・・(11ページ) 

幕末

幕末の俳諧は、鳳朗門の奥平鶯居、梅室門の内海淡節・大原其戎らその代表である。

おびただしい数の俳書、一枚刷・掲額などは、近世伊予俳諧の隆盛をものがたるものであり、殆ど省筆したが、子規登場の前に俳諧的基盤が確立していたことを改めて知る必要がある。・・・ (11ページ)

明治初期

明治初期大原其戎の「真砂の志良辺」(明治13年)は月刊俳誌として全国で3番目に古い。

奥平鶯居選「俳諧花の曙」(14年)は週刊俳諧のはしり。同人は県内・県外ともに500余名。

その後数種の俳誌が刊行されているが、森孤鶴の「はせを影」(24年)には俳諧幽玄論を主唱するなど、子規登場以前に俳句人口が多く俳諧趣味が培われており、その雰囲気は醸成されていた。・・・(13ページ)

正岡子規

正岡子規(明治35年・36歳)の俳句は、20年8月(真砂の志良辺)はじめて活字になった。

1年8か月其戎の指導を受けたが、その死により古俳句研究を志し、グループの俳句会互選により、内藤鳴雪・藤野古白・五百木瓢亭・新海非海、宇和島の土居藪鶯・二宮素香・二宮孤松ら革新運動に参加、松山の河東碧梧桐・高浜虚子もこれに応じ、26年日本新聞文苑欄を中心に推進。

28年子規は従軍、秋病院治療に帰松、柳原極堂ら松風会の連中を指導するとともに、共同生活をしていた夏目漱石もまた俳句に熱中し、翌年には天下の俳人漱石となり、文豪への道をひらいた。

極堂は子規の俳句革新推進を志し、俳誌「ほとゝきす」(30年1月)を発行、21号以後「ホトトギス」は東京の高浜虚子の手に移り、全国的俳誌として今に中心勢力となっている。子規評明治30年初頭優秀俳人38名中、伊予村上霽月ら17名、伊予俳壇の活況が想像されよう。・・・(13ページ)

子規没後

子規没(明治35年9月19日)後、高浜虚子は「ホトトギス」、河東碧梧桐は日本新聞を継承し俳壇は二分、碧梧桐は全国を行脚、四国路へは43年7から11月滞留、新風をひろめた(続三千里 中巻)。

碧梧桐の新傾向は森田雷死久、野村朱鱗洞と継承、のち自由律口語体、ルビ付きと転じ、種田山頭火も松山を終焉の地とした。

漱石の『吾輩は猫である』(明治38年4月「ホトトギス」)以後、小説へ傾斜した虚子にかわって、松根東洋城(宇和島出身)は伝統を護持し「渋柿」派は県下に普及。

大正2年虚子は俳壇復帰を宣言して俳句に専念。新人に芝不器男、中村草田男ら登場。

その後松高俳句会は篠原梵・八木絵馬ら川本臥風の指導をうけ(「石楠」)、一方極堂は上京し「鶏頭」を主宰した。

富沢赤黄男(川之石)の新興俳句運動のあと、草田男・加藤楸邨・梵・絵馬・石田波郷(「馬酔木」)ら人間探求派として注目されたが、楸邨以外は松山出身者であった。・・・(13ページ) 

戦後

戦後、波郷らは俳句再建を叫び、赤黄男は近代短詩、草田男は芸の深化一元化を叫び、桑原武夫の第二芸術論に対し、かえって俳句は流行するようになった。

昭和26年子規50年祭には虚子・極堂ら参加、41年には子規・漱石・極堂生誕百年祭、48年虚子・碧梧桐生誕百年祭、昭和51年子規漱石展挙行、各流綜合俳句選が継承され、連句も脚光を浴びてきたし、各俳誌はさらに隆盛に向かっている。

子規生誕百年祭を機に、子規顕彰全国俳句大会が実施され、10年後には愛媛大学グループによる『子規全集』25巻刊行となり、15年後の昭和56年4月には、松山市立子規記念博物館開館し、個人中心の文学系博物館として、トルストイ・魯迅の博物館と並称されるようになった。・・・(14ページ) 

ホトトギス

松山で誕生した「ホトトギス」は、昭和55年4月千号を向え世界最長の歴史をもつ雑誌といわれている。・・・(14ページ)

句碑

県下に芭蕉句碑43、子規句碑66、虚子17・霽月17・極堂27・東洋城15・黙禅39・碧梧桐6の句碑あり。

「俳句の国」愛媛の一面を象徴している。・・・(14ページ) 

先頭に戻る

愛媛県史にみる愛媛文化史・トップへ戻る

お問い合わせ

スポーツ・文化部文化振興課 文化振興グループ

〒790-8570 松山市一番町4-4-2 

電話番号:089-947-5581

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?
評価

このページの情報は見つけやすかったですか?
評価

ページの先頭へ