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更新日:2018年4月1日
出典:愛媛県史 愛媛県史 学問・宗教(S.60.3.31発行)
「第1章 学問」より(抜粋)
国学の基礎は、伏見稲荷の神官荷田春満によるとされているが、同社の大山為起は、貞享4年(1687)松山藩主松平定直に招かれ、味酒社の神官として、神道・古典を講説すること24年、『味酒講記』は『日本書紀』全巻の注釈書であり、門人千余人に達したという。
幕末には、平田篤胤の娘婿として、新谷藩の平田銕胤は篤胤の学風を継承、明治維新後大学大博士に任ぜられた。
伊予においては、矢野玄道は篤胤没後の門人、厖大な著述を残し、明治新政府にも貢献した。
常磐井厳戈も大洲の人、平田塾に入門、神儒仏蘭学とその学問は広汎深遠で、その門から三瀬諸淵らを輩出した。
また国学は勤王思想を醸成し、各地に勤王家が続出した。(3ページ)
伊予八藩の基盤が確立し、江戸幕府の文協政策に則り、各藩は積極的に推進、儒学は活況を呈し、漢詩文創作の意欲も高まり、優れた著書や漢詩文集が多く出た。(3ページ)
陽明学は、中江藤樹を始祖とし、その学風は大洲・新谷両藩に継承され、川田雄琴が招聘されるに及んで、大洲・新谷教学の基礎となった。
堀川学派(伊藤仁斎)は、松山・宇和島両藩に伝えられ、丹波南陵ら徳行を重視した。
護園学派(荻生徂徠)は、文芸至上主義を唱え、伊予全域に浸透した。とくに西条藩に山井崑崙、松山藩に僧明月・宇佐美淡斎らが活躍した。
朱子学派。南学は、土佐の大高坂芝山が松山藩に招かれ、中国・朝鮮の学者・詩人達と風交を重ねるにとどまった。
崎門学派(山崎闇斎)の三派、浅見絅斎派に松山藩の大月履斎、三宅尚斎派に同藩の宮原龍山、佐藤直方派に同じく三上是庵らあり、伊予全域に浸透した。
なお、是庵は明治維新後、松山藩存亡の危機に敏腕を発揮した。
寛政異学禁止令達後、伊予八藩の藩学は、漸次昌平黌派の朱子学に転じ、他の学派は衰微していった。(4ページ)
幕府は朱子学を文教政策の中枢としたが、その原動力は川之江(現在四国中央市)出身の尾藤二洲、昌平黌教授であった。
二洲は、柴野栗山・古賀精里と寛政の三博士といわれ、『素餐録』など、その著作も多い。
二洲門の三傑として、文章は長野豊山(四国中央市)、徳行は近藤篤山(西条市)、経学は越智高洲といわれている。・・・(4ページ)
伊予における漢学・漢詩文の隆盛は、各藩主自ら学問を愛好、奨励したからである。しかも、漢詩文を楽しみ、優れた詩文集を残している人が多い。
従って、優秀な人材を昌平黌に派遣し、帰藩後は、設置した藩校の教授として、また藩政の枢機に参画させるなど、人材登用の道を誤らなかったからである。
昌平黌学派は、各藩の藩校に採用され、俊秀を養成輩出、幕末・明治維新後の高度の文化を形成した。
近代愛媛の、日本の開化は、各地の、多数のこれら文化に担い手によって拓かれたといえるであろう。(4ページ)
石田梅岩創始の心学は、松山藩の田中一如によって、初めて伊予に伝えられた。
一如は、中沢道二・大島有隣らに師事し、全国心学講師認定書「三舎印鑑」を受け帰郷、松山に「六行舎」をおこし、中予・東予から、京阪・江戸、大名家江戸藩邸などで道話をなし、「盲目の都講」などといわれ、その人格・学殖を称された。
六行舎門の逸材に、松山の近藤平格、今治の丹下光亮がいる。・・・(5ページ)
伊予の人で、本格的に蘭学研究に志した最初は、松山藩医安東其馨であろう。杉田玄白に師事し、その『解体約図』(1773年刊)『和蘭医事問答』(1795年刊)の編さんに協力している。
文化年間、大洲の鎌田玄台は、紀州の華岡青洲の塾に学び帰郷、大洲に開業、西日本随一の外科医の名声を博し、来り学ぶ者関西一円に及んだ。
文政年間には、松山の青地林宗が、『気海観瀾』その他多数の翻訳書を刊行、理学研究に新境地を拓き、医学の進歩にも貢献した。
天保9年(1838)緒方洪庵の「適塾」が開設され、大洲藩の武田斐三郎ら20余人が入塾した。その他、京都・江戸の塾に学ぶ者には、伊予全域から多数に上った。
二宮敬作を中心とする南予蘭学は、来訪した高野長英・大村益次郎らにより興隆した。
安政年間、国際情勢進展し、蘭学一辺倒から、西洋の学術「洋学」に一変した。(5ページ)
本県に現存する算額は30面、全国での順位は18位である。
現在算額数の多い県は、福島・埼玉・岩手・群馬・宮城・長野の諸県で、主として東北・関東に集中しているが、本県は関西地区では最も多く第1位である。
算額は、和算図とその計算術、近世日本でとくに発達した高等数学で、貴重な文化史料といえよう。(6ページ)
愛媛の方言は、伊予の人々が日常語りあってきた生きたことばであり、愛媛の現在もなお、日々用いているイヨコトバ、またはイヨベンである。
しかも、上記のカタカナの下側に傍線を施したところは、アクセントの強いところである。さらに、県全体、東・中・南予それぞれの地域的な特性もある。
愛媛の方言についての概論ではなく、毎日人間生活を営む中での生きたことばを、実際に語られるままに、待遇関係などの応答もそのままに、生きたことばをどのように表記すればよいか、それを示されたのが本稿である。・・・(6ページ)
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