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加戸守行知事退任あいさつ

ページID:0010917 更新日:2018年1月12日 印刷ページ表示

日時:平成22年11月30日(火曜日) 11時30分

場所:県庁第二別館6階 大会議室

 

皆さん、こんにちは。本日、皆さんとお別れする瞬間が参りました。12年間にわたる県庁職員の皆様方の懸命な御努力、御支援、御協力に心から感謝申し上げます。

思い返すと、平成11年1月28日にこの壇上に立ち、皆様方に訴えました。知事や上司といった上にではなく、愛媛県民や県内の市町村に目線を合わせて欲しいと要請しました。この基本的な考え方に基づいて、12年間で素晴らしい愛媛県に転換したことを評価させていただきます。

県知事の仕事は、掛け声をかけたり、思いつきを言ったり、そういった傾向は無きにしも非ずですが、県民の社会保障や福祉をはじめとする行政サービスを展開するため、全員一致の協力体制がなくては何事も成し得ません。表面的にはいろんな現象が見えます。しかし、物事が成るまでの間の、下積みや裏方の懸命な汗と涙の結晶が、一つの事象の成果として表れるものです。

県民の負託に応えるため、今日まで私なりの思いをもって走らせていただきました。その間、例えば用地の買収や県税の徴収、あるいは県民からの何くれとない相談への対応や普及指導員としての農家の方とのさまざまな接触、これらすべてのことが愛媛県の現在、未来をつくってきたわけです。お礼を申し上げたいことの一つは、県民の間に溶け込み、率先垂範して素晴らしい活動を展開していただいたことです。

平成16年の新居浜、西条地域における豪雨災害・土石流の災害で、復旧支援に駆けつけたボランティアの過半数が県庁職員だったことは、12年間の知事生活の中で最大の誇りと悦びでありました。皆さん方にはずいぶん無理を申しました。国際航空路線であるソウル便、上海便搭乗率の減少など、国際問題があった等々で路線の存続が危ぶまれるたびに、県庁職員に協力を要請しました。中には、3回も4回も利用された方々もおられます。そういった支えがあって、2つの国際路線は今日までキープできているのです。

また、スポーツの振興という視点で、愛媛FCあるいは愛媛マンダリンパイレーツ県民球団を盛り立てていきたいとの思いから、折目節目に入場者の確保の動員をかけました。時間をさいて、スタジアムや球場に足を運び応援いただいた皆様方にもお礼を申し上げます。なかんずく三位一体改革による地方財政の極度の逼迫の中、あらゆる事務事業の削減や県有財産の売却など、歳入確保のいろんな手当てをした後に、禁じ手とも言える県庁職員の給与カットに踏み切らせていただきました。ちょうど生活において子弟が進学されるなど、家計が苦しい方々にとって給与カットは残酷な措置であったと思います。愚痴を言わずについてきていただき、心から感謝申し上げます。

この考え方の基本にあったのは、中国の宋時代の政治家、范仲淹(はんちゅうえん)が『岳陽楼記』の中で残している言葉です。

「天下の憂いに先だちて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ」

いわゆる先憂後楽とダイジェストされて日本では使われていますが、県庁職員が率先垂範してこの財政危機に対応し乗り切っていくということがあって、はじめて県民に行政サービスの低下や事業量の減少等について理解を示してもらえると思いました。私が知事の職から去るにあたり、せめてもの償いとして、来月から給与カットの措置を大幅に緩和させていただきますが、今後、国・地方の財政状況は、まだまだ安心できないのではないかと懸念しています。任期を若干残して退任するのも、新しい知事の下、新しい愛媛をつくる基礎づくりのため、来年度の予算編成あるいは組織・機構の見直し等々に期間が必要と考えたからであります。

私の好きな言葉に
「人生意気に感じては成否を誰かあげつらう」
があります。愛媛に対する思いを持ち、仕事で意気に感じて取り組んだことが、結果として吉と出るか凶と出るかは、いずれ後世の人々が評価するでしょう。人間は目指す方向への思いを持って仕事をすることに生きがいを感じるものである、このことを自分の信条として今日まで対応して参りました。

実は、私が知事に就任した3ヵ月後、皇太子殿下、雅子妃殿下の御来県を仰ぎ、しまなみ海道の開通式典が盛大に開催されました。その時、自分自身は県知事として、しまなみ海道開通に関し、何ら寄与、貢献もしていないと感じながらも、県知事であるが故に主役として、晴れがましい舞台に立ちました。思えば、それまで数十年にわたっての、先人のさまざまな取り組み、努力など、多くの方々の貢献が結集してあの式典につながったわけですから、自分自身が企画して成功させ、自分の手で祝おうと考えるべきではないと思いました。

世の中の評価は、その時代に何があったかということで見ます。その晴れがましい時点で知事のポストにあった人、あるいは部長のポストにあった人、課長のポストにあった人の関わりはいささかであり、多くは先人の努力によるものです。道州制が実現した場合は別にして、明治初期以来の愛媛県の歴史はそういう形でつくられてきたのだろうと思います。仕事をする上での一つの考え方であり、そんな思いで今日まで仕事をして参りました。それまでの間、地道な努力を重ねてきた多くの方々がいる中で、その時期にポストにある人が代表して栄誉を受けているに過ぎない。皆さん方もこのことを肝に銘じて職務に取り組んでいただければ幸いです。

楽しい思い出もたくさんつくってもらいました。県民ミュージカルに出演したほか、私の願いであった県民オペラは3回開催することができました。この、舞台の公演もたった一日です。そこで展開されたオペラは素晴らしい芸術であると評価されるでしょうが、それに至るまでの長い期間の仕込み、あるいは舞台の裏で努力されている多数の方々の努力の結晶が、わずか短い時間で評価されているのです。

私自身、全国知事会では、どちらかと言えば少数派の知事でした。三位一体改革の時には、3兆円の税源移譲と義務教育費国庫負担金の廃止がテーマとなり、全国知事会で徹底抗戦いたしました。確かに義務教育は市町村で行われる教育ですが、義務教育を課しているのは国ですから、就学義務を課すことの財源は国が100パーセント手当てすべきであり、地方の税収で賄うものではないという信念からでした。残念ながら、何でもいいから地方に金を持ってきたいという流れの中、全国知事会では3分の2の多数決で敗れ、義務教育費国庫負担金の補助率は、2分の1から3分の1にカットされて決着しましたが、私自身は、このことで正論を主張し続けたことに誇りを持っています。

最近では、国・地方を通じた財政難の中、「地方財政の展望と地方消費税特別委員会」の委員長として、47都道府県知事の中で誰よりも先に、誰よりも強く、地方消費税の引き上げなしに、地方における社会保障を中心とした行政サービスの維持は極めて困難であるという主張を繰り返して参りました。全国知事会の中でも理解は進んできましたが、もっともっと強く声を上げ、あるいは県庁職員全員が、県民に理解を求める努力をしていかなければ、財政破綻への道をひたむきに歩んでいる傾向は変わらないと思っています。

愛媛県知事になった時、誇らしかったことの一つは愛媛県という県の名前でした。大体4年に1回、県知事は、天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下に県政概要を御説明する機会を得ます。その時に、胸を張って申し上げたのは、1300年前に太安万侶によって編纂された『古事記』の中の国生みの神話です。淡道之穂之狭別島(あわぢのほのさわけのしま)の次に、伊予之二名島(いよのふたなしま)、今の四国が生まれました。

「此嶋は身一つにして面四つ有り。伊予国を愛比売(えひめ)と謂い」

1300年前の文献で、47都道府県の中、唯一表れている地名が愛比売であり、愛しい媛、愛らしい媛といった、こんな素晴らしい名前の県はないと思っています。今日、名前に関してうれしかったのは、今まで常用漢字に含まれていなかった、愛媛の「媛」、才媛の「媛」の字が、本日付けの内閣の告示で常用漢字に追加されたことであり、胸を張って愛媛という字を書くことができるようになりました。

また、愛媛にある「愛」も、私にとって誇りでした。「愛」あるブランドで県産品を宣伝させていただきましたし、坂村真民先生の書による「愛媛産には、愛がある。」は、愛媛のブランドマークであります。明日、知事に就任される中村時広さんに、名刺に「愛媛産には、愛がある。」を使ってくださいとお願いをしました。普通、知事が交代すれば、新しいコンセプトで自分自身の好みの名刺を作られますが、後任に注文をつけてはいけないことは重々承知の上で、愛媛の思いがこもっている「愛媛産には、愛がある。」を使っていただくことにしました。

愛媛には1200年前からの、衛門三郎以来の遍路文化があり、お接待の心があります。私は、人に対する思いやりの気持ちを「愛と心のネットワーク」というコンセプトで提唱いたしました。サマーボランティアの参加数をはじめ、さまざまな分野で、この花が大輪のごとく咲き誇っていくことを大変うれしく思っています。幸いなことに、中村時広新知事にも「愛と心のネットワーク」の精神は継承・発展させると約束いただいており、全国に誇る愛媛県のこのコンセプトを今後とも大切にしてほしいと願っております。

私はこれまで、3月末に退職される県職員に、明治の詩人、与謝野晶子が歌集『草の夢』の中で詠んでいる歌をはなむけの歌として呈して参りました。

「劫初よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金の釘一つ打つ」

「劫初」の「劫」というのは未来永劫の劫で、「劫初より」は、愛媛県がスタートした時点から今日に至るまで、「殿堂」は建物のことではなく、愛媛県、愛媛県庁という組織・機構の意味と理解していただければと思います。その殿堂に、自分も黄金の釘を一本は打った、という思いを持って県庁を去っていただきたい、そんな思いから申し上げて参りました。私が今日、県庁を去るにあたり、この歌を自分自身に贈りたいと思います。愛媛県の歴史の中で、皆さんとともに黄金の釘を打つことができた喜びを、この歌に託して感じたいと思っております。

これからは一県民として、愛媛県の発展を祈って参ります。どうか、街でお会いする機会があったら、「加戸さん元気ですか」と声をかけてください。加戸ちゃんと言われると一番うれしいのですが、これは小中学生に委ねます。皆さんとともに愛媛の発展を願い、一県民として皆さん方の御健闘を祈ります。

最後に、先ほど触れた坂村真民先生の「あとから来る者のために」という詩を読ませていただきたます。県庁で仕事をするということは、過去の歴史・伝統文化を引き継ぎ、現在の時代に合わせて変化・対応を考え、そして未来から来る者のためにバトンタッチをすることであると思うからです。

「あとから来る者のために田畑を耕し種を用意しておくのだ
山を川を海をきれいにしておくのだ
あああとから来る者のために苦労をし我慢をしみなそれぞれの力を傾けるのだ
あとからあとから続いてくるあの可愛い者たちのために
みなそれぞれ自分にできるなにかをしていくのだ」

あとから来る、これから産まれてくる子どもや孫たちのために、愛媛県が何をなすべきか、それぞれの立場でお考えいただき、この県庁の中で、自分にできる何かをがんばっていただければ幸いです。

「愛媛の歌」は県政発足100年を記念して制定されました。藤岡抱玉先生の書による1番の歌詞がそこに飾ってあります。時々は眺めてください。私の大好きな「愛媛の歌」の1番、2番の歌詞に、県庁職員が目指すべき方向性がすべて盛り込まれています。「愛媛の歌」とともに働き、生き、心の支えにされ、新知事の下、再結集して愛媛の未来を築いていかれることを祈ります。

ありがとうございました。

 

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