法律第11号により、明治42年、大阪府下に第3区連合府県立療養所の建設を決定したとき、最初は府下高槻付近に敷地を求めたが、住民の反対にあい、結局、神崎川が海に注ぐ低湿の地外島に建設を決定せざるを得なかった。これがそもそも、悲劇の発端であった。
その後、外島保養院の拡張計画が決まった際に、現在地は敷地が狭く不適当であったことから、他の土地への移転が計画されたが、これも住民の反対にあい、移転はあきらめられ、現在地において設備が拡張されることとなった。
昭和9年9月21日朝、室戸台風は風速60メートル、300ミリ以上の雨と、 4メートルから5メートルの高潮を伴って近畿地方を襲った。この時、外島保養院は拡張工事の途中であった。この台風による高波のために外島保養院は浸水し、建物は流出、入院患者173名が遭難、死亡。職員3名が殉職、職員家族11名が死亡する悲劇が生まれた。
生存患者424名は全国の各療養所に分散、委託収容されたが、外島保養院は同地において復興を果たすことなく、岡山県長島の西端に昭和13年4月27日、邑久光明園として再建された。それは委託患者であった者たちの長い苦難と渇望の歳月でもあった。
療養所制度の発足以来多くの療養所で大小さまざまの紛争が発生したが、昭和11年に起こった長島愛生園での紛争(長島事件)は、原因が患者側と療養所側との間にわだかまっていた根本的な対立関係に根ざしており、当時の療養所が背負わされていた矛盾が一度に露呈してきた事件、すなわち起こるべくして起こった事件といえる。
当時、愛生園は890名の定員に対し、1,100名を超えるという定員超過の状態で、これにより、患者関係経費は実質3割も低下し、入所者の生活は窮乏の一途をたどり、居室も12畳半に8名から10名、夫婦舎も6畳1間の部屋に2組の夫婦を同居させるという非人道的な状態であったが園は根本的な解決を図ろうとはしなかった。
また、定員超過により、患者作業の作業賃の支出が3倍以上の増となり、作業賃の捻出が困難になった園は、8月10日、夏期早朝作業のはじまる午前5時半、職員による作業場の総点検を実施し、患者側の反発を買った。同じ日、逃走を計画していた4人の患者が検束され、監禁室に入れられた。
これらのことが契機となり、作業放棄から全入園者によるハンストや服薬も拒否した「長島事件」がはじまった。入園者大会で、1.待遇改善、2.自治性の認可、3.園長たち4幹部の辞任、4.内務省への直接陳情、5.内務省係官の視察、を要求することなどが決議され、要求書が提出されたが、交渉はなかなかまとまらなかった。
交渉が長引く中、警察隊が導入され、岡山県特高課長の斡旋と仲介により、一応の解決を見たのは8月28日であった。
熊本市本妙寺集落は、多くの困難な問題をかかえた患者集合地であった。
昭和15年7月9日、山田駿介熊本県警察本部長は、本妙寺集落の一斉検挙を断行、本部長自らが指揮をとり、警務課長、情報課長、衛生課長がこれに従い、熊本市南北両警察署長の率いる172名の警察隊を本体とし、衛生課員15名がこれに参加、さらに九州療養所(現在の菊池恵楓園)の職員が応援として加わり、総勢220名で寝込みの本妙寺集落を一斉に強襲して検挙を行い、つぎつぎにトラックで九州療養所の留置監禁室に収容した。引き続き10日、11日にも検挙を継続し、合計157名(未感染児童28名を含む。)もの人々を検挙した。
この本妙寺集落に対する強制収容のすさまじさ、そして、当時の行政がいかに強力に患者の強制収容を行っていたかは、九州療養所長の厚生省予防局長あての報告中の「七月九日午前五時ヲ期シ熊本県警察部長総指揮ノ下ニ県関係官、熊本南北両警察署及九州療養所職員二二〇名ヲ以テ、本妙寺らい部落ヲ一斉ニ強襲シテ寝込ヲ襲ヒ、水モ漏サヌ検挙ヲ行ヒ身柄ハ一応「トラック」ニテ順次九州療養所ニ運ビ、構内ニ在ル警察留置所及当所監禁室ニ収容シ、斯クテ翌々一一日 続行、残存患者ヲ掃蕩シ、合計一五七名ヲ一網打尽ニ検挙シテ・・・近来ノ快事トシテ慶幸ノ至リニ堪ヘズ」との表現から読み取れる。
昭和25年1月16日、栗生楽泉園で入所者同士の反目から3人の入所者が殺害されるという事件が発生した。このことは、同年2月15日の衆議院厚生委員会で取り上げられ、光田健輔(当時の長島愛生園長)らが患者の取締りの強化を訴えた。
また、同年3月17日の衆議院厚生委員会では、同月7日から同月10日まで栗生楽泉園の実地調査を行った丸山直友委員が、楽泉園殺人事件のような不祥事が起こらないようにするためには、園の周囲に柵をめぐらせ患者が自由に外出できないようにすること、現行の懲戒検束規定が憲法違反でないとの明確な解釈を加えることなどが必要である旨述べた。これに対し、佐藤藤佐刑政長官は、「癩患者の特殊性にかんがみまして、療養所の中で脱走を防ぐため、あるいは園内の秩序を維持するために、ある程度の懲戒処分をしなければならぬという必要は、当然認められるのでありまして、癩予防法の法律の委任を受けて、現在は癩予防法施行規則というものを省令を規定されておりますが、この法令の根拠がありますれば、必要なる限度において懲戒処分を行うことは適法である。」として、新憲法下でも旧法の懲戒検束規定に基づき懲戒処分を行うことができる旨の答弁をした。
藤本事件は、容疑者がハンセン病患者であったために捜査、公判、上告及び死刑執行の過程で患者に対する偏見と差別が影響し、公正さの欠如した裁判という疑いが暗い影をおとし、わが国裁判史上に問題を残す事件である。
昭和26年8月1日、熊本県菊池郡水源村、農業・藤本算(当時50歳)宅へ竹にダイナマイトをくくりつけたものが投げ込まれ、算と二男公洋(当時5歳)に、それぞれ全治10日間、一週間の負傷を負わす事件が発生した。この事件の容疑者として同村の藤本松夫(当時29歳)が逮捕され、昭和27年6月熊本地裁の菊池恵楓園出張裁判で懲役10年の判決を受けた。裁判では、被害者の算が同村役場に勤務中、熊本県衛生課のハンセン病調査に際し、松夫を患者として報告、そのため松夫は突然菊池恵楓園への入所通告を受け、平和な生活を脅やかされたのは、算の密告が一切の原因と恨み、凶行に及んだとされた。
これに対し、松夫は、無実を主張、福岡高裁に控訴したが、控訴は棄却された。有罪の物的証拠として爆破に使った導火線やひもと同じ者が家宅捜索で発見されたこととなっていたが、松夫や家族の話によれば、家宅捜索の際には何もなかったのに、あとで警察に呼び出された際、自宅からでた証拠物件だとして見せられて驚いたといっており、はじめからあいまいな点が多い事件であった。
この後、松夫は菊池恵楓園内の拘置所に収容されたが、昭和27年6月15日、拘置所を脱走し、指名手配された。ところが松夫が行方不明中であった同年7月7日朝、水源村の山林で算が上半身に20数箇所の切刺傷を負い、惨殺されているのを小学生が発見した。その数日後、松夫は付近の山畑で逮捕され、昭和28年8月29日熊本地裁の出張裁判で死刑の判決を受け、同年12月1日福岡高裁に控訴、5回の出張裁判の後、昭和29年12月13日控訴が棄却され、原審どおり死刑を宣告された。
この裁判の経過と判決に対して、松夫と同じ病気に悩み、苦しめられてきた全国の療友は大きな疑問を抱き、全国ハンセン病患者協議会(全患協)は公正な裁判を要求して松夫の救援に立ち上がった。全患協は貧しいなかから資金を出しあい救援と裁判の費用を集め、第二審判決を不服として、昭和30年3月12日、自由法曹団の弁護士らによって最高裁判所に上告したが、2回の口頭弁論の後、昭和32年8月13日上告は棄却された。弁護団は、直ちに判決訂正申し立てを行ったが、この申し立ても却下されたため、再審請求を第一審の熊本地裁に提出した。一方、漸く事件の重大性を知った社会各層の人々により、昭和33年には「藤本松夫を救う会」が発足し、全患協とともに松夫の救援を行うようになった。昭和37年には、この会による現地調査が始まり、運動が次第に盛り上がっていく中、再度再審請求の手続きがとられたが、昭和37年9月14日、突如として松夫は処刑された。
この事件は、有罪、無罪両面共、裏付ける積極的な立証が極めて困難な事件であったが、被告は逮捕直後の自白を除いては終始一貫、犯行を否認、無実を主張していた。また、主要な証拠とされた松夫の叔父、叔母の証言、凶器とされた短刀の鑑定、凶器につぐ重要証拠とされた被害者の血痕が着いたとされた松夫のタオルとズボン、いずれについても証拠能力の疑わしいものであり、納得できない点が多くある。
日本においては、人命尊重の観点から、第一審で死刑の判決を受けた被告の再審請求を受理するのがほとんど通例となっているのに、松夫の場合は却下されている。また、被告が再度再審請求の手続きをとっている段階で突如死刑が執行されたことも異例であった。こうしてこの事件は、多くの問題を残したまま、歴史の闇に埋もれていった。
竜田寮は、菊池恵楓園の入所者の扶養児童を養育する同園附設の児童福祉施設(熊本市所在)であり、昭和28年度まで同園の児童は一般の小学校(黒髪小学校)への通学が認められていなかったが、宮崎園長(当時の菊池恵楓園長)の働きかけもあって、昭和29年4月から入学が認められるようになった。
ところが、入学式当日、PTA会長ら一部保護者が、竜田寮の新一年生4人の通学に反対して、小学校の校門に立ちふさがり、「らいびょうのこどもといっしょにべんきょうせぬよう、しばらくがっこうをやすみましょう」等と書かれたポスターを貼るなどして、竜田寮児童の登校を阻止する行動をとった。
この問題は、昭和30年4月、熊本商科大学長が里親となって児童を引き取り、そこから通学することで一応の決着をみたが、ハンセン病に対する偏見を如実に表す事件であった。
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